パリで活躍する素敵な方々にインタビューし、それぞれの「モンパリ」をお聞きします。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
「エール・フランスパイロット松下涼太さんに訊く」
2005.01
 ■ Interview つづき

副操縦士としてエールフランスで活躍する涼太君
「エールフランス入社は最年少だったのですか?」

 いいえ。コンペから2年はフランス経済が落ち込んでエールフランスの採用がなかったんです。でもほかのことをする気は全く無くて軽飛行機でもカナダエア(山火事の消火用飛行機)でも何でもいい、空を飛ぶ仕事につきたいとそのことばかりを考えていました。ですからグルノーブルのパイロットの学校のディプロムをとったり又ランスの学校の軽飛行機モニターの免許をとったりして将来のパイロットのポストを確保するのに有利なようにとにかく頑張りました。パリではHISPANOSUZA(イスパノスーザ)に通いつめました。
20歳のときにエールフランスからどうかという話しがあったのですが一応試験はあるわけです。一度落ちると二回以上受けられないんです。操縦のほうは問題ないと思いましたが他にもいろいろ課題があるので熟考の結果、一年伸ばすことにしました 。


「入社試験はいかがでしたか。経験者も沢山受験したと聞きましたが。」

 ええ、狭き門でした。英語もこんな単語までというような出題もありましたし3人の応募者の仲間とパニック時の処理の仕方、例えばタンカーの海難事故を想定した出題で、遭難者の救出と、石油が海に広がるのを防ぐためにネットを張る仕事をするのに事故現場でどのように救出しどのように指示を出して石油流出の被害を最低に抑えるかというようなことを15分位で答えなければいけないのです。勿論いくつかの可能性があるので、「ここから出発すればあちらの空港より遠いけれどもより大きなネットが用意できる。でもその間にも石油の流出があるので行く時間と広がり方のスピードを計算して」というようなことをやらされたのです。
その前に細かい身体検査があり、持病がなく健康体であること、さらに視力や聴力に問題が無いことを調べました。ここでもパイロットの資格に十分な健康体を授けてくれた親に感謝しています。21歳で受験してその間に誕生日を迎えましたので22歳でパスしたわけです。


「今はどちらを飛んでいるのですか?」

 中距離、具体的に言うと中近東ぐらいまで行っています。今は副操縦士として飛んでいます。


「なんかヒヤッとしたと言うか危険を感じたようなことはありませんでしたか?」

 現在はありませんが、一度訓練中に指導教官のミスで全く五里霧中といった感じになって、夜でしたしもう生きては帰れないかと殆ど死を覚悟した時がありました。降りてからも体が震えて止まりませんでした。


「機長になるのも遠い夢ではないですね?」

 中距離の機長でしたら後数年ですが僕の夢は長距離、つまり日本へ行く飛行機の機長になって日本のお客様を乗せて飛びたいのです。ですからあと15年以上かかると思います。


「それでもまだ40そこそこの機長になるわけですね。コンコルドの墜落についてはどうお考えですか?」

 まあ人間の科学には限度があるということなのでしょう。あの事故が無くても最後の時期には来ていたのです。僕もパイロットとして一度は乗ってみたかったというのは本音ですが。また別の物が出来ると思います。


「最後に日本の若い方に一言。」

 そうですね…やっぱり夢を持つということですね。僕も一つの夢があったからそれに邁進できました。夢がなかったらだらだらしてたかもしれません。
夢を持ってそれに向かって努力すればいつか叶います。それを信じて頑張ることです 。



 映画のストーリーのようなパイロット誕生物語ですがやはり 身の危険を伴うような経験も積んでおられます。
まだ26歳と大変若いパイロットですが年よりずっと落ち着いた 分別を感じさせます。小さいときからの夢を鉄の意志で実現させた 若者は光り輝いていました。

現在、友人たちと日系二世の会を結成して活躍中  
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