ナント(Nantes)というのは、18世紀に頂点を迎えた奴隷貿易で富み栄えた都市である。と、初めて聞いた時は、「えっ!」と驚いたが、ちょっと考えてみると、ナントには、ロワール(la Loire)川を、引いていく潮の時刻に合わせて2時間も下れば、目の前に大西洋が開けるという、水運に恵まれた立地条件がある。あの時代、それを最高に生かせるビジネスが、たまたま、奴隷の売買だったのだろう。第二次大戦前までは、ナントの街には、縦横無尽に運河が流れ、〈西のベニス〉と呼ばれていたそうである。だから、この街の人々にとって、船で移動し、船で物流を確保し、船で商売をすることは、至極当然のことだったに違いない。そして、その数ある商品の中で、一番、利鞘が大きかったのが奴隷だった、ということになってしまうのだろうか?彼らは、商品としての黒人を、黒い黄金(l’Or noir)、あるいは、黒檀(le Bois d’Ebene)と呼んでいた。歴史はいつも、お金とともに動き、お金のあるところに人が集まり、物も流れて行く。だから、当時、最も面白い投資対象としての黒人奴隷に、産業革命を間近に控えた西欧各国の潤沢な資本がつぎ込まれていったと言えよう。それに、15世紀中頃に始まった大航海時代の冒険的気運も、あちこちの港に溢れていただろうし、沢山の乗組員や食糧を積み込んで出港すれば、何十倍にもなる富を蓄積して帰港できるという、どうしようもない魅力が、一攫千金を狙う男達の野心を、書きたてたのは、至極当然なことである。だから、ナントの街が、ヨーロッパの歴史に影を落とす、暗黒の1ページに、大きく加担していたからと言って、単純に驚いてはいけないのだろう。そんなことを思っているうちに、もう少し、この奴隷貿易なるものを知ってみたくなってきた。
それは、三角貿易(le Commerce Triangulaire)と言われるシステムだった。先ず、西ヨーロッパの、安価な雑貨や毛織物、酒類、武器などを、アフリカ大陸に運んで売り捌き、その利益で黒人を買う。買った黒人を船に乗せて、西インド諸島(カリブ海の島々)やアメリカ大陸まで運ぶ。その黒人達は、当時、需要増加の一途を辿っていた、プランテーション向けの労働力として、高価に売り買いされる。そして今度は、新大陸の綿花、コーヒー、砂糖、タバコなどを買い付けて、西ヨーロッパに持ち帰り、さらに莫大な利益を上げる、という構造である。その利潤を、また奴隷貿易につぎ込み、汲めども尽きぬ、貿易収支の黒字を積み上げていたのが、当時のフランスである。だから、ロワール河口の街 = ナントの商人達も、勿論、積極的に、この巨大な人身売買に参画していた。昔、中学校で習ったように、バーソロミュー・ディアス、コロンブス、そして、ヴァスコ・ダ・ガマなどが、ポルトガルやスペインの港から、世界に向けて船を漕ぎ出し、新しい土地や、新しい航路などの発見に沸きかえっていたのが、所謂、大航海時代である。それから、僅か3世紀の間に、大西洋を渡ったアフリカ原住民は、実に1,500万人を超えるといわれている。果てしない危険を覚悟した上での、海運による輸送以外は不可能な時代だから、これは、大変な数字である。ここで、さらに驚くべきことは、フランスの一般市民が、1789年に勃発したフランス革命によって、漸く、最低限度の人間的権利を獲得しつつあったと同じ時期に、黒人奴隷の売買は、平気で行なわれていたという事実である。(註1)
ともあれ、この、野蛮な貿易の巨大なうねりに上手く乗っかり、ナントの街はリッチになっていった。ロワール川は、ナントから西へ65kmほどの地点で、大西洋に注ぎこむ。そこに、サン・ナゼール(St.Nazaire)という港町が広がっている。今もサン・ナゼールは、クイーン・マリー二世号(Queen Mary U)などの大型客船を建造している造船の町だが、当時も、サン・サゼ―ルには、アフリカや西インド諸島からの、長い航海を終えた大きな帆船が次々に入港してきた。そして、ロワールを遡り、ナントまで物資を運搬する。こうしてナントには大規模な河岸(当時は、勿論、港と呼ばれていたし、今でも、港湾事務所(la Capitainerie)や、税関(la Douane Maritime)がある)が出来、積荷や荷揚げに働く人間達が溢れ、美しく着飾った出迎えの人、見送りの人が、華やかな色彩を鏤(ちりば)めた。そして、久し振りに陸に上がった乗組員達は、貰ったばかりの給料でポケットを膨らませ、娼家へ出かけていったのだろう。だから娼家は、河岸とほぼ平行して建ち並んでいた。今でも、その辺にはBarが軒を並べている。活気、喧騒、熱気が、河岸を包み、遠い遠い南国の植民地から届いたエキゾチックな風物が、見たこともない色の乱舞でナントの街を染め上げていった。異国の富と宝が積まれ、異国の酒が酌み交わされ、肌の黒い異国の女達の歌や踊りも、夜毎夜毎、繰り広げられていたのだろうか?
ナントの街の中心には、今でも、この時代に建てられた美しい建物群が林立する一角がある。第3話《フェイドー島(Ile Feydeau)と、奴隷貿易》で紹介した、ケルヴェガン(Kervegan)通りである。これら18世紀的な美的意匠を凝らしたバルコニーには、川幅の広いロワールのパノラマが展開し、そこに上り下りする、美しき帆船の連なりが見えたそうである。これらの建造物は、馬車がそのまま入れるように両開きの大きな門を構え、石畳を敷き詰めた中庭の奥には、緩やかにカーブする、階段の手すりが見える。こういう建物は、おそらく、この莫大な富を生み出していった奴隷貿易の産物なのだろう。自分のアパルトマンのサロンに、ルイ王朝風の長椅子を設え、午後のお茶を楽しみながら、窓越しに自分の船を眺める。富を求めて出港する船、富を積み上げて入港する船、その往来に歓喜している最中にも、さらに、富は蓄積され続けていたのかも知れない。
さて、19世紀も終わりに近づくと、この〈西のベニス〉に路面電車 = トラムウェイ(Tramway)が開通した。1878年に登場した、圧縮空気の機動力で走る(Metarskiというシステム)第一号のトラムウェイだった。それが、電気によって動く、所謂、電車になるのは、1913年のことである。その間にも、トラムウェイの線路は少しずつ増設され、1924年には、ナントの街を主要な通りを網羅するまでになった。こうしてトラムウェイは、西のベニスにモダンな横顔を添え、水運と陸運の双方に恵まれた、新鮮なアーバン・ライフを提供するに至ったのである。
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juin 2006
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(中編に続く)