ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第十一話
西のベニス(Venise de l’Ouest),奴隷貿易,
そしてトラムウェイ(Tramway)
**後編**
2006.08
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(中編から続く)
私が、幼稚園に通っていた頃は、東京の重要な交通網は都電だった。私も、 17 番の都電に乗って、幼稚園に通った。千代田区の三崎町から 17 番の都電に乗って、小石川 4 丁目で降りた。 17 番の走行区間は、数寄屋橋から池袋東口までである。水道橋には、何本もの線が交差していて、ポイントの切り替えをすることもあった。そういう時は、結構、長い間、都電の中に座ったまま、待っているのである。子供だから長く感じたのかも知れないし、本当に長かったのかも知れない。谷崎潤一郎の『刺青』は、「世の中が、今のように激しく軋み合わない頃…」という冒頭のフレーズで始まるが、ちょうど、そんな感じである。当時だって随分、せっかちだった東京人も、やっぱり、どこかゆったりしていたのだろう。「時間がかかりますね ! 」などと、車内で話しながら、みんなイライラもしないで待っていた。そして、神田須田町は、都電の大きなターミナルだったので、いつも、いろいろな番号の都電が往来していた。その頃の須田町には、生地の問屋さんが沢山集まり、ボタンや糸などの小物専門のお店も沢山あった。路面電車独特の懐かしい音が、ナントの街を走っている筈の私を、昭和 40 年代の東京に連れて行ってしまった。レールの下に続いているナントの石畳を見ながら、なぜか、東京の道路を見ている気がしていた。時間の軸と地域の軸が、同時にスリップし、複雑に交錯していた。しかし、その複雑さは苦痛ではなく、むしろ、クリスタルで出来たピラミッドの中を、自在に遊泳しているような、軽い爽やかな感覚が私を包み、私の脳裏は爽やかなライト・ブルーで、静かにひたひたと満たされていった。

そんな、軽いブルーを楽しみながら、しばらく乗っていると、やがて、進行方向を変える地点に到着した。今の電車のパンタグラフのように、どちらにでも進めるようなシステムではないから、終点に着く度に、運転手さんと車掌さんが、長い紐で、パンタグラフを引っ張りながら、180度回転させるのである。昔は、こうやっていたのか?と感心した。自動列車制御装置などというものもない当時、電車は、本当に、人間の肉体労働で運行されていたのだろう。都電も、こうやっていたのだろうか?ついこの間、秋葉原の交通博物館に行ってみた。今年の5月には閉館になり、埼玉県の草加に引っ越してしまうという話を聞いて、せっかくだからと行ってみたら、都電の写真も沢山あり、パンタグラフの方向変換もあった。しかし、私は、そういうものを見たことがないから、おそらく、その頃はもう、人力による方向変換はなかったのだろうと思う。しかし、早朝割引というのは、やっていた。私が乗るような時間帯は、割引ではないから、《わりびき》と平仮名で書かれた札は、運転席の上にしまってあった。ただ、平仮名だったから、幼稚園に通っていた私にも読めたのである。交通博物館で、その平仮名の札を見た時、ふいに感動した。記憶の奥にしまいこまれた古い映像が、急に、ハイビジョンのカラーになったような感覚である。こんな風に、ナントの1913年型トラムウェイは、意外な形で、私の脳裏に折りたたまれていた、昭和40年代の様々な生活場面のスケッチを、紙芝居のようにゆっくり、しかし、1枚1枚、確かめるようにめくっていったのだった。

さて、懐かしい追憶に伴う、そこはかとない痛みとともに、私が、都電の走る東京にタイムスリップしている間に、細身のトラムウェイは、すでに、たった1日の特別区間を走り終えようとしていた。今の車体と比べても、意外に静かな1913年型は、今夜から再び、車庫に入ってしまうのだろう。日本では、昔の路面電車を集めて、近代的な車体との共存を実現させて運行している都市が、いくつかある。広島も、その一つ。かつての都電で見慣れていたような運転席が、今でも、そのまま広島市内を走っている。車掌さんも乗っていることがある。こういう試みをナントでもやってみたらいいのに…、と思った。この美しきトラムウェイが、今もナント市内を、最新の低床型車体と混在して走っていたら、みんなもっと。路面電車という、エコロジカルな乗り合い電車に関心を持つだろう。それに、この美的空間を汚すのは、あまりに心痛む行為だから、利用者のエチケットだって改善されるかも知れない。なにしろ、今のトラムウェイは、乗る人の礼儀がなっていないから、ゴミは落ちているし、シートは汚れてしまっている。しかし、きれいな電車だったら、汚しにくいだろうと思う。人間は、自分のいる環境に染まっていく動物だから、きれいな環境にいたら、それに慣れて、自分の周囲を汚したくなくなるのではないだろうか?せっかくの歴史的交通機関を、もっと頻繁に、もっと身近に体験したいものである。

20世紀初頭、街中に運河が巡り、大きな帆船が入港し、美しきトラムウェイが往来する…、その類稀な三位一体は、ナントの街を、個性美溢れる水運都市に仕立てていたのだろう。その時代のナントを見てみたかったものである。18世紀、奴隷貿易で富み栄えた頃の、活気、喧騒、熱気もまだ、ロワールの河岸に残っていたのかも知れないし、遠い異国の風物、異国の酒も、街のあちこちに染み付いていたのかも知れない。エキゾチックな色の乱舞も、相変わらず、ナントの夜を染めていたのだろうか?異国の富と宝が、世紀を超えて発し続ける魅惑的な罪の味は、ロワールを見下ろすバルコニーを、トラムウェイの振動を支える石畳を、そして、河岸に沿って走る、引込み線の線路を、抗しがたい夢色に染め続けていたのかも知れない。歴史の中の、暗黒の1ページに潜む夢色とは、野心の色だろうか?罪の色だろうか?もしかすると、アール・ヌーヴォーっぽい色彩だろうか?有機的自由曲線を組み合わせ、ガラスや鉄などの素材を奔放に使った、冒険の装飾芸術 = アール・ヌーヴォーにとって、毎夜、夢色に花開く題材は、まさに真骨頂だったのかも知れない。

西のベニスは、水運の街だったから、今でも、SNCF(フランスの国鉄)ナント駅の前には、あたりまえの駅前広場がない。タクシーもバスも、見送り出迎えの車も、普通の駅のように、スムースに入って、出ていく、流れるような空間がないのである。やはり、水運が完備していたからなのかもしれない。おそらく、鉄道という交通網の重要性が、ほかの街より、ずっと低かったのだろう。それほど、ハイレベルの水運が完備されていた、ということだろうか?そしてこの水運こそが、歴史の暗闇の中で、ナントという街に、黒い富を積み上げていく原動力となったのである。
(aout2006)

草生(くさむ)した 引込み線に 入り陽(ひ)燃え
西のベニスの 記憶を運ぶ
カモメ 詠

アクセス
- パリ、モンパルナス(Paris Monparnasse) 駅から、 フランスの新幹線TGV (Le Croisic) 方面に乗って、約2時間
- (Nantes) で下車。
- 北口から、(Tramway) の1番線 (Francois MITTERAND) 行きに乗る。
- 右手に、ブルターニュ大公(Duc de Bretagne)の城を見ながら、3つ目の コメルス広場(Place du Commerce) で降りると、バス、トラムウェイのターミナルになっている。
- トラムウェイの2番、3番線にも、ここで乗り換えられる
- スミタン(SEMITAN)という、ナントの交通機関の切符発売所なども近くにあり、バス、トラムウェイの時刻表、路線地図も手に入る。
- ロワール河岸に行くには、そのまま1番線に乗り続け、コメルス広場から5-6分、造船所(Chantier Naval)、あるいは、臨海駅(Gare Maritime)で降りる。
- コメルス広場から、21番のバスで、シャントネ(Chantenay)、ペレ(Perray)方面に乗り、ギャレンヌ(Garennes)で下車すると、ジュール・ヴェルヌ(Jules VERNE)博物館があり、そのあたりはサント・アンヌ(Ste.Anne)という丘になっているので、ロワール河岸がよく見える。

以下の5枚の写真は1913年型トラムウェイが、終点に着いた時、方向変換をするために、パンタグラフの方向を、人力で変換している様子。パンタグラフに紐をつけて引っ張り、少しずつ回して、180度変換しているのがよくわかる。



細身の車体を支える、重厚な車輪部分



1913年型の車体と、現在の最新型 =
低床で、車椅子や、乳母車も乗せやすいシステムの車体が、臨海駅の停留所でちょうど並んでいるところ。



摩滅した引込み線の線路。毎日のように通り過ぎていった
幾千幾万の貨物を、追憶のかなたに抱いてアスファルトに埋まっていく。
そこに、草も生えている。 「城春にして、草木深し」の感じ。



18世紀の帆船も、ここで、舫い綱を張ったのだろうか?
河岸には、無数の船の記憶が 染み込んでいる。


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