ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第二十六話
バナナは、Quai des Antilles (ケ・デ・ザンティーユ =アンティーユ河岸)で熟す
**後編**

2008.5
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(中編から続く)
さて、アンティーユ河岸の、ちょうど向かい側が、la Butte Ste.Anne(ラ・ビュット・サント・アンヌ)という、かなり高い丘になっていて、そこにMusee de Jules VERNE(ジュール・ベルヌ博物館)がある。この建物は、ロワールのほうから眺めると、白い壁に3段ものイタリア式開口部(第20話 《カリブの青い風を見た街 パンブフ》 参照)が作られ、柱の部分に使われたちょうどいい分量の赤いレンガが、絶妙のアクセントを添えている。19世紀にブルジョアの住まいとして建てられた、美しい館である。丘の頂上部分に入口があって、入口側から見ると、ただの1階建てに見えてしまうが、中に入ると、地下2階まで降りるような造りになっている。地下と言っても、斜面に建っているので、ロワールの水面からは、かなり高いところに位置していて、ロワールを上り下りする船を、どの階からも眺められるという絶好のロケーションである。アンティーユ河岸に着岸する船から、陸揚げされるバナナも、よく見えたことだろう。

ところで、Jules VERNE(ジュール・ベルヌ)は、1828年2月8日、ナントのIle Feydeau(フェイドー島)(第3話《フェイドー島と奴隷貿易》参照)で生まれている。その時代のナントは、縦横無尽の運河が巡る水の都だから、フェイドー島も本当に島だった。ということは、ジュール・ヴェルヌも、ロワールに面した、ブルジョア(代訴士 = 訴訟手続きのみを行なう裁判所の付属吏の父と、船主、航海士の家に生まれた母)の家に生まれ、アパルトマンの1室を自分の部屋にし、鍛冶屋が丹精込めて鍛錬した、凝ったバルコニーの装飾に身を乗り出すようにして、美しき帆船の出船入船を眺めていたのだろう。毎日毎日、長い航海を終えた船を迎え、長い旅路に出帆する船を見送っているうちに、自分自身も新大陸に行ってみたくなったとしても、それは、当然の成り行きに違いない。1839年、11歳の彼は、内緒で、西インド諸島へ向かう船に、水夫として乗船してしまう。しかし、それに気づいた父親が追い駆けてきて(たぶん、馬車で)、最初の経由地、パンブフ(19-22話 『カリブの青い風を見た街 Paimboeufパンブフ』参照)に碇(いかり)を下した船に、ぎりぎりのところで間に合ってしまった。その時、彼は、密かに想いを寄せていた従姉妹Caroline TRONSON(キャロリーヌ・トロンソン)のために、珊瑚の首飾りを持って帰りたかったのだ、と弁明した。が、こっぴどく叱られ、「もう2度と、旅には出ない。」ことを約束させられてしまったらしい。それ以後、かの大作家ジュール・ベルヌの、空想の世界における、大旅行が始まった、そうである。ジュール・ヴェルヌほどの人でも、なかなか親には理解されなかった、ということになるのだろうか。定番の実情は、どこにでもあるものだ、と、妙に感心した。

この、ジュール・ベルヌ博物館の建つサン・タンヌの丘から、ロワールを見下ろしてみると、ボーリュー島の西端がよく見える。大きな、灰色のクレーンの横に、バナナの倉庫が平らに伸びている。以前、ここから写真を撮った時は、もうちょっとグレーなイメージだったし、誰もいなかった。が、今は、沢山の人が往来している。カフェに座る人、座らない冷やかし客、それを見物する人、写真を撮る人、自転車で乗りつける人、乳母車を押す人、・・・。ここが、河岸として機能していた頃は、どんな喧騒が、どんな温度の中を渦巻いていたのだろう?潮香を含んだ、埃っぽい空気、行き交う人々、着岸する船、バナナの積み下ろし、運河に向かって漕ぎ出す船、引込み線を滑る貨車、貨物の駅まで続く、重くて確実な車輪の音、・・・。海運都市ナントを、見てみたかった。水上交通によって、すべてが流通する方が、こういう地の利に基づいた、この街の理屈には、ずっとしっくりあてはまる気がする。街を巡る運河を埋め立ててしまったにも拘らず、街を横切るロワールを渡る橋は、3本しかない。だから、この、どうしようもない車社会で、ラッシュアワーに橋を渡る、という必要だけで、1日2回、恐るべき渋滞が起こっている。東京に遊びに来た、夫の両親は、沢山ある便利な橋の数々(もともと島国だから、日本人にとって、積極的に橋を造ることは当たり前なのかもしれない)に驚き、広島と今治を結ぶ『しまなみ海道』に感嘆し、こういう橋の、たった1つでもいいから、ナントに持って帰りたいと言ったほどである。水上交通で、すべての用が足りていた時代、ナントの公共交通機関は、それで完成していたのだろう。だから今、出来るだけ、街から車を締め出して、バス、トラムウェイを利用するように働きかけても、もともと、陸運に適した街ではないのだから、必ずどこかに、無理が生じている。もっと、水上バスを頻繁に運行すべきなのだ。それに、運河を埋め立てた狭い道が多いのだから、バスも小型にして、沢山、走らせれば、全体が、もう少し軽く流動的に機能するだろう、と思うのだが・・・。ヨーロッパの、特に地方の人は、大きくて、重いものばかりに価値を見出しているから、どうにもならない。

さて、この倉庫に積み上げられたバナナは、アフリカ東海岸のギニア、象牙海岸と、カリブ海沿岸のマルティニック、グアダルーペから、それぞれ大西洋を揺られて到着した。カリブの島々の名前は、いろいろ聞いたことがあるが、何故か仏領の島は、聞き覚えがない。手持ちの世界地図を引っ張り出してきても、マルティニックとグアダルーペだけは、書かれていない。で、これを機会に、西インド諸島とか、アンティーユ諸島とか、漠然と使ってきた地名を整理しておこうと思う。

西インド諸島とは、英語でWest Indies(ウェスト・インディーズ),フランス語でIndes Occidentales(アンド・オクシドンタル)。Florida(フロリダ)半島南端及び、Yucatan(ユカタン)半島東端から、Venezuela(ヴェネズエラ)北部沿岸にかけてカーブを描くように、7000余の島、岩礁、珊瑚礁が連なっている地域の名称で、この連なりが、大西洋と、メキシコ湾、カリブ海との境界線を形成している。1492年10月12日(奇しくも、私の誕生日)、この海域に到着したコロンブスが、Bahamas(バハマ)諸島の住民の肌の色(よく、陽に灼けていたのを見て、インドに着いたと勘違いしてしまったことに、由来する名称である。

さらに西インド諸島は、主としてバハマ諸島、大アンティーユ諸島、小アンティーユ諸島の3区分からなり、他に、カリブ海対岸の中米大陸沿岸や、大西洋上など、ちょっと離れた所に点々と浮かぶ島々を含んでいる。バハマ諸島の大部分は、1973年にイギリスから独立した、バハマの領土。大アンティーユ諸島には、Cuba(キューバ)、Cayman(ケイマン)諸島、Jamaica(ジャマイカ)、Haiti(ハイチ)、Dominican Republic(ドミニカ共和国)、Puerto Rico(プエルトリコ)などが、西から東に点在している。そして、プエルトリコの東から、Trinidad and Tobago(トリニダード・トバゴ)まで、小アンティーユ諸島が続く。小アンティーユ諸島は、北部Leeward(リワード = 風下)諸島と、東部のWindward(ウィンドワード = 風上)諸島が弓なりに連なっていて、さらに、南部Leeward(リワード = 風下)諸島は、ヴェネズエラ本土の近海を東西に走っている。フランス領・海外県のグアダルーペと、マルティニックは、ウィンドワード諸島に含まれていた。Dominica(ドミニカ国),Saint Lucia(セント・ルシア),Barbados(バルバドス),St.Vincent and the Grenadines(セント・ヴィンセント及びグレナディン)諸島, Grenada(グレナダ)などの島々と並んで、大西洋とカリブ海に囲まれている。

と、ここまでわかってみると、大アンティーユ諸島の国々は、中米諸国として世界地理でも習っているから、何となく知っているが、この小アンティーユ諸島のウィンドワード諸島なんていう細かい地理までは、全然知らなかったことに、気がついた。こういうところにも、フランス領があったのか!このあたりの小さい島が、今でも、イギリス領、オランダ領、フランス領などと記載されているのを見ると、あの大航海時代、本当に、白人は、あっちこっちに出かけて、略奪・占領をしたんだね!と感心する。結局、奴隷貿易以来の伝統、というものが、そのまま残っている感じ。で、こういう海外県を、D.O.M.(Departement d’Outre-Mer デパルトマン・ドゥートル・メール)と呼んでいて、たとえば、グアダルーペは971, マルティニックは972という、県の番号を持っている(パリは75、ニースのAlpes-Maritimes県は06,ナントのLoire-Atlantique県は44というような、県番号である)。ちなみに、T.O.M.(Territoire d’Outre-Mer テリトワール・ドゥートル・メール)という海外領土もあり、こちらは、Nouvelle Caledonie(ニュー・カレドニア), Tahiti(タヒチ)島に代表される、Polynesie Francaise(仏領ポリネシア)など、南太平洋の島で、構成されている。余談になるが、タヒチ島に移住したGaughin(ゴーギャン)を始めとする画家達が、ブルターニュに住んでいた時期がある。Finistere(フィニステール)という県の、Pont-Aven(ポンタヴェン)。1度行ってみたら、ブルターニュには珍しい溢れる陽光の中で、自然の色彩が、きらきらと変化する、明るい風光の土地だった。確かに、光を求める画家達には魅力的な景色が続いている。で、彼らはPontavennistes(ポンタヴェニスト = ポンタヴェン派)というものを形成したが、きっと、フィニステールの光では足りなくなり、しまいに、海外領土のタヒチまで行ってしまったのだろう。

こんな風に、どんどん大西洋を越えて海外県や領土に出て行く話を聞くと、私も行きたくなる。基本的に、(日本人は)島の人間だから、海を越えて向こうに行く、という感覚を持ち続けていたいのだろう、と思う。どこまでも、土地が地続きで隣り合っていく大陸というものとは、どうも相容れない。水平線が見えたほうが、気持ちが開けて体も軽い感じ。そこに、明るい陽光が降り注いでいれば最高である。やっぱり、大航海時代などという大それた時代を生きていたら、そして、出船入船にさんざめく海運都市に暮らしていたら、それこそ誰でも、水平線の向こうに行ってみたくなっただろう。その時代のナントに住んでみたかった!バナナの倉庫に近いパーキングで、真っ赤な愛車、205Junior(プジョーの205 ジュニア)に乗ったまま、私と夫は、当時の港の賑わいと人いきれを、想像していた。そして、旧デュビジョン造船所の向こうに、おそらく、昔と同様に沈みつつある入り陽を見ながら、「時代を間違えたね!ナントという土地を、体験すべき時は、18 - 19世紀だったんだね。」と、語り合った。オレンジ色の夕陽が、ロワールの川岸に突き出た、いくつものクレーンを、金属的重さのあるシャープなラインで浮かび上がらせていく。そして、辺りはだんだん暗くなり、だんだん黒くなり、ロワールの水が、黒い豹の体のように、しなやかに流れていく西の彼方に、私達は、バナナ農園の夕暮れを思い描いた。朝早くから働き続けている、コーヒー色の肌をした人達の、長い1日は、漸く暮れるのだろうか?今日収穫されたバナナは、いつ、冷蔵コンテナでSt.Nazaire(サン・ナゼール = ロワール河口の港で、造船所のある街 第19話 《カリブの青い風を見た街 パンブフ》序編 参照)に入港してくるのだろう?そんな幻想の彼方に、3本マストの霧笛を聞いた気がした。

(avril 2008)
(終編に続く)


紺碧の Notre Dameの 天井に 
カリブの海の horizonを見る
カモメ詠



ボーリュー島から、対岸のLa Butte Sainte Anne(ラ・ビュット・サンタンヌ = 聖アンヌの丘)を眺めた写真。ジュール・ベルヌ博物館の白壁の前を、ナヴィバスが通っている。博物館左手の階段を見ると、かなり勾配の急な丘に建っているのがわかる。



階段を上から見下ろすと、下の道路まで、いっぺんに転がり落ちて、ロワールの水面に吸い込まれるような感じがするほど、急な傾斜になっている。




博物館を、足元から見上げると、濃いブルーの空と、白亜の館のコントラストが印象的。



博物館の入口は、丘の上にある。ここだけ見ると、小さな建物のようだが、この階から下に地下2階まで、順路がひろがっていく。地下2階でも、下の道路より、ずっと高いところにある。博物館と聖アンヌの像の間に、タイタンのクレーンを擁した、ボーリュー島最西端が見える。





ジュール・ベルヌが生まれた、フェイドー島が、本当に島だった頃の図。(Atelier et Chantier de Nantes (ボーリュー島にのこる、ナント造船所の建物)に常設展示されている。)現在では、この島の周囲は埋め立てられ、石畳の道になっている。この小さい島に、リッチな船主達のアパルトマンが林立しているのだが、今では、かなり傾いて、窓枠や入口も歪んでいたりする。が、重い石の建築が、ロワールが運んできた砂で出来た、小さな島に密集しているのだから、あちこちで地盤沈下が起こっても不思議ではない。


内緒で水夫になって、西インド諸島に向かう船に乗り込んだ、11歳のジュール・ベルヌの背中は、こんな風だったのだろうか?夢見る背中は、ロワール下流を眺めながら、聖アンヌの丘に、今日も右膝を抱えて座っている。


博物館の通用門。旅立ち叶わぬジュール・ベルヌを、尚いっそう掻き立てる尽きない夢想を、そのまま門にしたような意匠。

ボーリュー島最西端を眺める位置に、【港湾都市ナント】と書いた方位図がある。タイタンのクレーンの向こうに見える建物は、建築家 Le Corbusier (ル・コルビュジェ 1887-1965)の設計による、Reze(ルゼ = ナントの隣の市)のL'Unite d'Habitation (ユニテ・ダビタシオン)という、斬新な発想の集合住宅。(これも、そのうち御紹介、の予定)



聖アンヌの丘から眺めた、再開発前のバナナの倉庫。コンクリートの塊が、平らに続いている。

現在のバナナの倉庫。コンクリートの塊は、沢山のブロックに分けられ、それぞれの間口がガラス張りになり、カフェが連なっている。2007年5月のオープニング当初は、すごい人出だった。



カリブ海を囲むように鏤められた、大アンティーユ諸島、小アンティーユ諸島の地図。
※画像をクリックすると、拡大表示されます。




聖アンヌの丘に積もる、今年の落ち葉。サクサクという音をたてながら、日向にも日陰にも吹き溜まっていく。



真っ赤な205Juniorの中で、「縦横無尽に運河が走る、海運都市ナントを見てみたかった!」と、私達が話し合っているうちに、フロントグラスにも、真っ赤な枯葉が、舞い降りてきた。ボーリュー島の秋、深まる。



サン・ナゼール大橋を通過しながら撮った、サン・ナゼール港。アトランティック造船所では、大型客船が建造されている。



アンティーユ河岸から、西陽に眩いロワール下流を眺める。沈んでいく太陽の熱の中で、ボーリュー島最西端から臨む景色は、強いラインのシルエットだけに昇華されていく。右岸の先端に見える、旧ドュビジョン造船所の古いクレーンが、ナント海運業の誇りを支え続けているようだった。



西を見ながら座る人も、シルエットだけになっていく。周囲の音が消え、モノクロの景色も幻想に滲み、西陽の温度だけが肌に暖かい。歴史の渦に飲み込まれたような感覚の中で、大型帆船の霧笛を聞いたような気がした。




アクセス
- Paris - Monparnasse (パリ・モンパルナス)駅から、TGV Atlantique のLe Croisic (ル・クロワジック) 方面行きに乗り、Nantes (ナント)下車。(約2時間)
- ナント駅北口で、トラムウェイ1番線 Francois MITTERAND (フランソワ・ミッテラン) 方面に乗り、Chantier Naval (シャンティエ・ナヴァル) 下車。ナント駅から、5つ目の停留所。
- 停留所から、ロワール川を隔てて、向こう側が、もう、L’Ile Beaulieu (ボーリュー島) = 現在では、L’Ile de Nantes (ナント島)。Pont Anne de Bretagne (アンヌ・ド・ブルターニュ橋)を渡れば、島に入れる。が、Hangar a Bananes (バナナの倉庫)のあるQuai des Antilles (アンティーユ河岸)までは、かなり歩く。バスは、滅多に来ないので、頑張って、下流を目指し、西へ西へと、新大陸に向かって歩いてください。
- Quai de la Fosse (フォッス河岸)と、Trentemoult (トロントムー) を繋ぐNavibus (ナヴィバス = 水上バス)に乗るなら、トラムウェイで、ひとつ先の、Gare Maritime (ギャール・マリティム) で降りれば、目の前が、乗船所になっている。
- Musee de Jule VERNE (ジュール・ヴェルヌ・ミュージアム)に行くには、トラムウェイで、駅から3つめの Place du Commerce (コマース広場)で降り、21番の市バス Gare de Chantenay (シャントネー駅)方面に乗る。La Butte Ste Anne (聖アンヌの丘)で下車。
- ボーリュー島の中は、漠然と広いので、歩くのは大変!市営のパーキングに貸し自転車があるので、それも1案。コマース広場に隣接したフェイドー島地区に、トゥーリストオフィスがあるので、まず、そこに行ってみるのがお勧め。

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