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第18回
文豪の家 2004.07 |
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フランス文学に最初に出会ったのは、もう何十年も昔のこと。岩波の少年少女世界文学全集(だったかな?)を片っ端から読んでいた頃のことだ。もっとも、その時はフランスだろうが、イギリスだろうが、ロシアだろうが、作者の背景などはほとんど気に止めていなかったが。
とにかく、読み進むことがおもしろくて、いわゆる濫読状態だったから、たくさんの作品の中で題名と作者名とお話のすべてが
私の記憶にきちんと残ったのはほんのわずかだった。
その後、フランス語を習うようになって(これも何十年も前のことだけど)、フランス人のシスターから与えられた薄い冊子、始めて手にした「フランスの本」はアシェット社の『Fantine(ファンティーヌ)』と『Cosette(コゼット)』で、子供用に簡単に書き直されたこれらが、かつて読んだ数少ない記憶に残るものの1つの『ああ無情』だということはすぐにわかった。文豪、ヴィクトル・ユゴーの代表作『レ・ミゼラブル』は、私のフランスへの最初の窓口だった。
ちょっとパリ通の日本人観光客に、「どこが好き?」と尋ねると、「ヴォージュ広場」という答えが返ってくる。この広場はその景観の美しさから、多くの観光客に愛される(もちろんパリっ子にも)広場の1つだ。アンリ4世の計画(1605)で広場を取り囲むように計算されて作られた建物は壁面のレンガが程よくはめこまれて本当に美しいし、王の館、王妃の館を核として連なるアーケードと貴族の邸宅が、400年前と変わらずに整っているのは見事というほかない。
しかし、私が時々ここを訪れるのは、その空間を愛でるためだけではない。私にとっての最初のフランス、ユゴーに会うためでもある。
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コゼット
ユゴーの家から見たヴォージュ広場
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リヴォリ通りから王の館をくぐって広場に入ると、ちょうど右手の角、6番地に、ユゴーが住んだ(1832年から48年まで)館がある。現在はユゴー記念館として公開されているが、パリ市の粋な計らいで、2年くらい前から市立博物館は無料となり、常設展はいつでも気軽に訪れることができるようになって、とても嬉しい。中には、当時の室内が再現され、彼の両親や妻、最愛の子供達、孫たち、そして、最後まで生活を共にした女優ジュリエット・ドルーエにまつわる品々が展示されている。かの有名なレオン・ボナによるユゴー自身の肖像画を始め、家族の肖像画がたくさんあり、ややミーハー的興味もそそられるが、これらが200年も前の、1人の男の現実の物語かと思うと、その重みが胸をしめつける。
ユゴーがこのアパルトマンに引っ越したのは、当時の社会を大きく揺さぶった『エルナニ』や、今も尚ミュージカルなどで人気の『ノートルダム・ド・パリ』を発表した直後、私生活では末子の次女アデルが誕生したところだった。そして、ここに住んだ16年の間に、溺愛していた(第一子レオポールを生後3か月で亡くした夫妻は次に生まれた長女をレオポルディーヌと名づけた)新婚まもない長女夫婦を水の事故で失った。ユゴーは長女を始め、家族への想いを多くの詩篇に残したが、それが編み出されたのがまさにこの書斎だったのかと考えるだけで、床を歩く靴音の響きまでもが違ってくるから不思議だ。
やや重苦しい記念館の中で、私のお気に入りは、4人の子供達を題材とした絵である。ユゴーの子供好きは有名だが、手作りのトランプセットやおままごとなど、「子育て」にも並々ならぬ情熱を注いでいた男の子供達はきっと幸せな幼少時代を過ごしたに違いない。特に、デッサンで描かれたものは、少年少女の澄んだ瞳、なにげないしぐさが観る者を捉えて離さない。「子供の権利条約」なんてものが存在しない時代、コゼットのような子供達がたくさん町にあふれていた時代に、ユゴー家の子供達のなんと愛らしく、美しいこと。
これらのデッサンのほとんどすべてが母親、つまりユゴーの妻アデルによって描かれたものだと知った時にはなんとなく合点がいった。それにつけても、カメラのない時代の母親は大変だ。絵の素養もなければならなかったんだ!!
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左;ヴォージュに住み始めた頃のユゴーと次男フランソワ・ヴィクトル
右;長女レオポルディーヌ |