モンソー公園のすぐ横、マルゼルブ大通りから少し入った住宅地にニッシム・ド・カモンド美術館はある。この美術館が他と違うのは、単に物が展示されている建物ではない、ということだ。そこでは、カモンド家の生活のすべてが見られる。人様の生活を盗み見るのはあまりよい趣味ではないけれど、ここだけは別。なぜなら、装飾美術の研究家、蒐集家であったカモンド家の最後のあるじ、モイーズが、わざわざ後世のために残した、18世紀装飾芸術の集大成でもあるからである。
イタリア系ユダヤ人の三世としてパリに生きたモイーズは、相続したこの土地に1912年邸宅を建築、そして「これが手本だ」とばかりに、ブルボン王朝最後のルイ15世、ルイ16世様式の装飾をふんだんに取り入れて内装を整えた(1914年完成)。大きな客間、何冊あるのか、壁全体が書棚となった図書室。銀食器の置かれた食堂。その横の食器部屋。ブルーのサロン。鏡台、タピスリ、絵画、エトセトラ・・・。これらは、18世紀の装飾芸術がフランスの栄光の一つであることを疑わなかった大富豪の、涙の結晶でもある。
一つ一つ、説明を読みながら見ていると、まさに、最高の家具とは何かということが自然と解り、そしてまた現代のフランス人がそれを大切に‘模倣’しているのもよく解る。どこかで見たようなセーブルの食器、銀の器、燭台、ルイ15世様式の肘掛け椅子、ライティングデスク・・・彼らが200年も前の装飾工芸品を飽きもせずに身の周りに置き、相変わらず愛していることを、私は再確認する。
この、教科書のような美術館を身近に持つパリ人は幸せだな・・・と思う。が、一方で美術館誕生の背景を知ると、人の世のはかなさ、めぐり合わせに言葉を失う。モイーズが完璧なまでに整えた邸宅を継ぐべき長男ニッシムは、空軍中尉として第一次世界大戦に参戦し、1917年散華。嫁いだ娘の家族が一緒にこの邸宅に暮らした日々もあったようだが、モイーズは概ね淋しい晩年を送ったらしい。
そして息子の死を悼み、邸宅をそのままの形で、『ニッシム・ド・カモンド』という名前の美術館とするように遺言を残し、1935年に亡くなる。約束どおり、翌年、美術館はオープンした。
モイーズの嫁いだ娘の家族4人はその後、ナチスによって、アウシュビッツへと送られる。彼らの運命もまた、多くのユダヤ人と同じ道を辿った。現在、邸宅にまつわる人は一人もいない。ちなみに隣に住んでいたいとこのイサクはやはり東洋美術の大家であり、彼の蒐集品もまたギーメ美術館など、現在のフランスの貴重な遺産となっている。 |
ニッシム・ド・カモンド美術館入り口
図書室
ブルーのサロン
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