光が美しい、と感じる瞬間がある。
例えば、雨上がりの郊外を車で走っている時。
広い野原や菜の花畑の向こうに低い空が広がり、薄いグレーともブルーともつかないような雲の隙間から、まっすぐに透明の筋が降り注ぐ。天から落ちてくるその透明なものが、地平線に重なり、まるで何かが生まれたような、初々しい、そしてまさに神々しい淡いきらめきが見える。そんな瞬間に、これを描くことができたら・・・・・・などと、大それた望みを私は抱く。
‘隔週の日曜画家’程度の私は、もちろん、何も描けないのだけど、その美しさへの憧れや想いはフランスにいるとどんどん大きくなる。日本ではまだ見たことのない光だ。
街中では、これほど‘劇的な光’ではないのだが、それでも東京とは全く違う光の美を感じる。空気が乾燥しているせいだろうか。
冬が終わりを告げる頃、「早く大きくなるんだよ」と言わんばかりにマロニエの小さな緑の若葉に降り注ぐ光が葉っぱの間から漏れる。そのキラキラした木立の中では、子供たちの白い肌が透けて見えるようだ。光は美しいけれど案外強烈だから、私はサングラスをかける。
パリ市の西の端、ブーローニュの森に隣接して、ラヌラグという公園がある。
ここは、一応「公園」なのだが、リュクサンブールとかモンソーなどのいわゆる街中の公園とは違って、囲いの鉄柵はない。パッシーのほうから歩いてくると、ラ・ミュエットを越えて、並木の道がそのままなんとなく芝生の空き地へと続く、素朴な緑の地域である。そしてそのまま歩けば、また16区の端の住宅地へ出るという、‘自然な’公園なのである。
しかし、多くのパリの公園のように、ここにもやはりメリーゴーランドがあり、砂場があり、自動車の通らない舗装された道は、ローラースケートや自転車を練習する子供たちで溢れている。そして、これもまた公園にお定まりの、彫刻。ラ・フォンテーヌがきつねとカラスと一緒に子供たちを木漏れ日の中で見守っている。光溢れる季節に、この公園を歩くのがとても好きだ。
ラヌラグの公園が好きなのには訳がある。
それは、何の緊張感も何の警戒心もなく、まるで自分の庭にいるような気分になれるから。生まれて始めてパリの土を踏んだ時、最初の2日間だけとめてもらった遠縁の叔父夫妻のアパルトマンがブーローニュの森に面したスッシェ通りにあった。その後、1ヶ月ほど間借りした、老婦人所有のパリには珍しい一軒家はボーセジュール通りにあった。
プティ・トランというパリの外環を走る電車の線路の脇の、三階建ての家に住む老婦人は、なんでも日本びいきのお金持ちの未亡人だとかで、女中さんと2人でその家に住んでいたのだが、使わなくなった部屋を確か250フランで貸してくれた。20歳そこそこの私には、その未亡人はもう100歳くらいのお年寄りに思えたが、車の運転をしていたことを考えると、せいぜい70歳代だったのかもしれない。
1ヶ月分の部屋代を支払った時、私が女中さんに渡した封筒の中身はいわゆる「ピン札」だったものだから、お札がくっついてしまっていて、次の日に、老婦人は私に「お金が足りない」と言って来た。
ところが、彼女が使うお金の単位は旧フラン――フランスは、1958年にデノミネーションを行い、40数年間‘新’フランの時代が続いたが、その後2002年にユーロに。さすがに日常生活ではフランを口にする人はいなくなったが、大きな単位だといまだにフランのほうが感覚的にぴんとくるという人もある――のままで、何万足りない・・・・・・などという話になっていて、私はとても混乱した。「日本で勉強したフランス語なんて、何も役に立たない!」と泣きたいような気分になったが、トンチンカンな会話を繰り返すうちに、双方の誤解が解けた。
この瀟洒な家の3階の窓から、朝な夕な、私はラヌラグの公園を見、公園の空気を吸ってはメトロに乗った。
ずーーっと昔、20歳の頃のことだから、その時は「光」のことなど全く気がつかなかったのだが、それでも日本とはあまりに違ういろいろな光景が私の感性を刺激したことだけは確かだ。ぶらぶら歩いている時すれ違うお巡りさんたち――パリには交番はないけれど、本当にお巡りさんがたくさんいる。そしていつも散歩(巡回!?)している――のマントと帽子のかっこ良かったこと、メトロポリタンの文字の微妙な曲線、石造りの美しい建物が続く通りのプラタナスやマロニエの並木、舗装ではない、土とさざれ石の道を踏んだ時の感触など、今でも鮮明に思い出すことができる。いや、今でもそういった雰囲気はそのまま残っているのだから、正確に言えば、思い出すのではなく、その感覚が大好きで、心地よいので、なんとなくラヌラグに足が向くのかもしれない。(次号に続く) |
マロニエの若葉
ラヌラグの木漏れ日
彫刻 ラ・フォンテーヌ
ボーセジュールの家 |