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第39回
マダム |
2007.07エッセイ・リスト|back|next |
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この国で生活していると、町で時間を聞かれたり、道を聞かれたり、話しかけられることが多い。日本なら、外国人の顔をした人に、間違っても道を尋ねることなどないだろうけれど。いろいろな国の人々が住むパリでは、パリ人イコールフランス人とは限らないから、道行く人々は、エッフェル塔の下やモンマルトルのサクレクールの階段のところならいざしらず、自分の周りにいる人たちが、外国人かとか、観光客か、なんてことは全く考えていないのだ。多分。おそらくスリ以外は。だから、私に対しても、いろんな人が声をかけてくる。
先日も、街中の横断歩道のところまで来た時だった。赤信号を待っていた――この「信号」だが、車の行き来の激しい道路は別にして、歩行者は誰も信号を守らない。車がいなければ、赤信号だって渡ってしまう――かなり高齢と思われる小太りの老婦人から、「マダム、一緒に渡ってくださる?」と声をかけられた。
「ええ、いいですよ、マダム。さあ、どうぞ」と私は老婦人の杖をついていないほうの手をとり、いつもなら、10秒くらいで渡ってしまう横断歩道を、たっぷり30秒はかけて渡った。もちろん、この時は信号を守って!
また別の日のこと。「マダム……」と、ためらいがちに話しかけてきたのは、10歳くらいの少年だった。「今何時ですか?」
バス停のベンチに腰掛けた私が腕時計を見ながら「5時よ」と答える。「ありがとうございます、マダム」と少年は言い、小走りでその場を去った。もう15分も来ないバスを私は待っている。きっと少年は待ちきれなかったのだ。
やっと来たバスに、大きなバジルの鉢を持って乗り込み座席につくと、早速隣の座席の女性から声がかかった。「あー、いい香! 私もベランダでバジルとセルフイユを作っているんですよ。」ひとしきりハーブへの思いを語った彼女は「お先にね、マダム」と言い残し、バスを降りた。
「奥様」「奥さん」「お母さん」「おばさん」「お客様」日本語なら、場面場面によって、また話し手の立場や職業や習慣などにも左右されて、呼びかけのことばがたくさん存在する。ただ、たくさんあればいい、というものでもないらしく、「『おばあさん、席どうぞ』だって。失礼しちゃう!」と怒ったりする高齢婦人も多いようだから、難しい。そして肝心の、「不意に見知らぬ人に話しかける」ための言葉は日本語には存在しないらしく、「あのー」とか「済みません」とか、やや味気ないものとなっているが、そのせいかどうか、日本では、よほどのことがない限り、町で誰かに声をかけるなどということはないようだ。
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赤信号だけど・・・
バスこないわね〜。 |
パリでは、どうしてこんなにも皆が気安く話すのだろう・・・
根っからお喋りが大好きな国民性だから?いや、それだけではない。フランス人だって寡黙な人もいるのだし、もちろん、誰とも口をききたくない頑固者だっているだろうし。これは、やはり、生活習慣として「会話」がもたらす効果を多くの人が信じているからなのだ。そしてちょっと大げさな表現をすれば、人がいて社会が出来上がっている――そんな「空気」をみんなが認めているからなのだ、と思えてくる。
ふとした一言やなにげない言葉掛けがなんとなくその場を和らげるということを、パリで生活していると自然に実感できるのが嬉しい。
そして、「女の子」と表現できる年齢を越えた女性に話しかける言葉は、フランスでは、全部「マダム」なのである。八百屋のおじさんからも、女性同士でも、口がやっときけるようになった幼子でさえ、私に対しては、「マダム」と呼びかけてから会話が始まる。この言葉のなんと響きの美しいこと!
とかく年齢より若く見られがちの日本人が、「マドモアゼル」と呼びかけられて喜んでいる場面も目にするが、フランスは、圧倒的に年配者が尊敬される国で、実は、まだ一人前ではないと思われている証拠でもある。つまり「マダム」は時として、挨拶の意味をこめた丁寧語ともなり、例えばブティックに一歩踏み入れた時に、すーっと寄ってきてさりげなく応対をしてくれる店員の第一声も「マダーム」である。日本なら「いらっしゃいませ」というところだろうか。
本来は、語彙の豊富な、豊かな表現をもつ日本語が母国語であることを誇る私だが、「マダム」のたった一言の重みも、嬉しい。 |