勝手に「子供だましのパリ・プラージュ」、と決めつけていた私は、深く、反省(!)した。
普段、人は歩けない川べりの自動車道は、都会的明快さを残しつつ適当に素朴な浜辺(プラージュ)らしさを醸し出し、まさにパリ人たちの憩いの場となっている。
砂遊びにおきまりの小さなバケツとシャベルを持った赤ちゃん、ピンポンに興じる少年少女、日焼けに忙しい(?)うつぶせのビキニ姿の女性、孫のお守をしていると思われる老夫婦、カフェでコーヒーを飲みながら談笑する男たち・・・・。
ブロックごとに砂浜であったり、芝生であったり、桟橋風の木の床であったり、きちんと区画整理され自転車道まで残した設計プランも美しかった。
パラソルから係員の制服まで、ブルーに統一された《パリ・プラージュ》は、一風変わった公園のような雰囲気で、歩くだけでも楽しい。パリ市が「夏の新名所」として力を入れるのももっともだ、と思った。
自動車道を歩いていて、もう一つ面白かったのは、普段上を通るだけの橋を下から眺める、というところにもある。
橋げたに施された彫刻の一つひとつにも意味があるのだろうか・・・。ギリシャ神話だか、はたまたケルト民話だか、何とも奇怪面妖な顔がずらっと並んでいるポン・ヌッフの前では、しばし立ち止まった。どれ一つとして同じ顔はないようである。その中に、知人とよく似たものを見つけて、笑い声をたてそうになった。今度、彼をつれてこなくちゃ!
橋を渡ることは何回もあったのだが、今まで全く知らなかったポン・ヌッフの楽しさを、パリ・プラージュが与えてくれたのだ。
一人でニタニタしていてもマズイ・・・と、横を向くと、橋げたの端っこ、つまり上の一般道の歩道の壁となっている石垣のところに、セーヌの水位を示す目盛が彫られているのに気づいた。
冬場などに雨が続き水かさが増すと、バトー・ムッシュ(セーヌ川の遊覧船)は橋をくぐれないから運行できなくなるし、川べりの自動車専用道は水浸しになって、通行止めになる。その自動車道に立つ私の身長よりもはるか上のほうに、1910という数字があった。
気象庁始まって以来一番の水害をもたらした1910年。上の並木道を、船に乗って避難する人が写された当時の写真を見たことがあるが、ここに立つと、その百年前の洪水のものすごさも体感できる。都市を流れる川だから、急流に呑まれる、というような恐怖はなかったかもしれないが、じわじわと上がる水位は、人々の気持ちを暗くしたに違いない。数年前にも大雨が続いた時に、パリ人が冴えない表情で、しきりと「1910年」と口にしていたのを改めて思い出した。
さて、このポン・ヌッフと呼ばれる橋だが、ポンが橋、ヌッフとは新しいという意味の形容詞であるから、そのまま名付けるとすれば「新橋」である。
1604年に完成したこの「新橋」は現存する橋の中では最古参。アンリ3世が1578年に礎石し、アンリ4世の時代になってようやく出来上がった新しい橋である。何が新しいのかと言えば、それまでセーヌにかかっていた橋は、4本がすべて、建物で覆われた橋だったのだが、5本目のこれには全く家屋はなく、それが当時としては新しい試みであったらしい。
上に乗っかった建造物のために、橋としてはだんだん用をなさなくなっていたところに新しくセーヌに架けられたポン・ヌッフは、中洲を通って両岸をつなぐ、まさに、パリの往来を自由にする「幹線道路」で、人々の流行のスポットにもなった。
だから、そこには物売りもやってくれば、道化師や軽業師などの大道芸人やいかさま師、そして歯抜き(妙な商売があったこと!)もいて、とてもにぎやかだったらしい。
ところで、パリの道には、どんなに狭くても必ず「歩道」があるのだが、その第一号がこの橋の上のものと言われている。もっとも、それはすぐに「商売人たち」に占領されてしまい、歩く人に専用のものとはならなかったらしいが・・・。
それから400年もの月日がたって、今のポン・ヌッフから当時のにぎわいを想像するのは難しいが、橋脚の上の半円形の出っ張り――橋の上ではベンチになっていて、時々座り込んで本を読んでいる人や、仲睦まじくおしゃべりするカップルも多い――や、愉快なお面の数々は、当時のままの姿である。
(次号に続く)