久し振りにマルモッタン美術館に出向き、特別展に見入っているうちに
外はすっかり暗くなってしまった。人もまばらなラヌラグの公園を抜けメトロのラ・ミュエットを目指して、私は足早に横断歩道を渡った。
その時、誰かに呼び止められたような気がして、私は立ち止まった。
あたりを見回す。(空耳?)
少し離れたところに佇む人の姿がぼんやりと見えた。
歩き出すと、また何か聞こえた。やはり私を呼びとめたのだ。「何かご用?」私はその人のほうへと身体を向けて、一歩近づいた。
キャメルの半コートに同系色のパンタロンをはいた、栗色の髪の毛の小柄な女性だった。美しい顔立ちではあるけれど深く刻まれた皺のその人は、90歳くらいだろうか・・・・夕闇の中をロボットのようにぎくしゃくと歩きながら、必死に何かつぶやいていた。
老女の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。「何?」「済みません、もう一度・・・」と繰り返して、ようやく「32番」「バス停」という単語だけが分かった。
「さぁ、よくは知らないんですけれど。多分、あちら」
と、私はメトロの駅のあるほうを指さして――反対のほうは公園に戻るだけだから――、歩き出そうとした。
普段なら道を聞かれても、答えたらあとは関係ない。お互いににこっとして、それぞれの歩調で歩きだす。でも、この時ばかりは、私の足は機敏に反応しなかった。ほんの一瞬。たぶん、1秒くらい。あ・うんの呼吸と表現したくなるようなタイミングで、老女の右腕が私の左腕にからみついてきた。私のことをまるで大きな杖とでも思ったか、彼女の行動はあまりに自然だった。
老女にすがりつかれた時、実は、私はほんの少し身を固くした。
なにしろ、スリや物乞いの多い街である。地下鉄の車両の中を、小さなカップをにぎり、杖をつき、足を引きずりながらしわがれ声を発して歩く老婆は、「演技指導」を受けているその手のプロだと言われている。路上に、子供を抱き、哀れっぽい目つきで手を差し出す女たちが、二組いたら要注意。囲まれたらおしまいだ。
だから、その時も、一応、左肩にかけていたハンドバッグを、老女には悟られないように、そっと胸のほうに回したりした。でも、ほどなくして私の左腕は、彼女の右腕からにじみ出る「安堵感」をしっかりとらえた。私は、生まれてこの方、こんなにゆっくり歩いたことはない、というほどののろさで歩を進めた。
「お近くにお住まいですか?」
「い・い・え・と・お・く」
陽が落ちた後のラヌラグの道を、一月の冷たい風が吹き抜ける。
公園内の舗道
|
右頬に手を当てて、風を嫌って目を伏せると、私の左腕にからませた老女の手袋をしていなむき出しの右手の、節くれだった5本の指が‘く’の字に折れ曲がり硬直しているのが見えた。私は、革の手袋をはめた右手を、彼女の手に重ねた。
「あ・な・た・と・て・も・し・ん・せ・つ」
(あなたにしがみつかれて、振り切って逃げるわけにはいかないじゃない!?)
声にこそ出さないが、私は笑っていた。
(それにしても、なんて寒いのかしら。あなたがいなかったら、私走っているわよ)
ラ・ミュエットのメトロが少し先に見えてきた時、私たちの横をバスが追い越して行った。
「あ、マダム、あれですね。32番。停留所はあの先でしょうね」
「そ・う・ね」
「もう間に合わないですね。でもすぐに次が来ますよ」
私は、私自身を励ますように、老女に話していた。本当は、今、行ってしまったら、あと10分は来ない。
20メートルくらい先でバスが止まった。まさに停留所だったのだ。
と、その時、老女がまた何か言った。とても聞き取れない。え?何? ごめんなさい、もう一度・・・
「あ・な・た・は・し・っ・て・バ・ス・を・と・め・て・き・て・ち・ょ・う・だ・い」
私はわが耳を疑った。
哀れなばぁさま、と思っていたけれど・・・・、なんとしたたかなばぁさま!
でも、次の瞬間に私は走っていた。そして、一度は閉まった乗車口のドアを叩き、開けさせて、運転手に最上級の丁寧語で話していた。
「今、とてもお年寄りの、身体の不自由なマダムがあそこを歩いているんです。バスに乗りたいのだそうで、お願いですから、ちょっと待っていてくださいませんか」
あきれ顔の運転手。本当は迷惑だったのかもしれない。声に出して返事はしてくれなかったから。でも、コクリとうなずくと、バックミラーを見るようなそぶりをした。
(よかった。間に合った)
私は、後ろを振り向いた。15メートルくらいまで近づいた老女が、必死の形相で、‘全速力’で、亀のように歩いてくる!
それからの時間のなんと長く感じたこと。運転手はバスの乗車口の扉を閉めてしまったけれど、もちろん発車はせずにそのまま待っていてくれた。そして、いよいよ老女がバスに近付くと、降車口の扉を開けた。
身体の不自由な老女は、バスに上るのも大仕事だ。私は、山手線のホームの駅員のように、彼女の背中を後ろから支え、押し上げながら叫んでいた。
ラ・ミュエットに出る手前
|
「マダム、私は乗らないのよ。じゃあ、さようなら。気をつけてね」
バスの中に座っていた女子学生がさっと立ち上がると、老女の手を引いて、身体を持ち上げた。
扉が閉まった。
それから、窓際に腰掛ける二人の姿が見えた。私は乗車口へと回り、しまった扉の外から、「メルシー」と口を動かしながら、運転手に手を振った。彼も、口をへの字にして、手を振りうなずくとアクセルを踏んだ。
ある冬の日の夕暮時の出来事。
ラヌラグの公園が私にまた一つ思い出をくれた。
したたかなばぁさまが住むパリの街が、私は大好きだ。