朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
星の王子をめぐって 4
違いはどこから? Ⅲ- 今日風のことば遣い
2006.1エッセイ・リストbacknext
 英訳がむしろ邪魔をした、と思えるケースもある。たとえば、18章、砂漠で出会った一輪の花から、王子が人間たち(隊商)の情報を聞かされるところである。
 Le vent les(=les hommes)promène. Ils manquent de racines, ça les gêne beaucoup.
 The wind blows them away. They have no roots, and that makes their life very difficult.(Woods 訳)
 この部分の訳はCを除いて他はほとんど差がないので、B・Cだけを示す。
B) 風が運んでゆくんだもの。根がないのよ。それってとても不便だわ。
C) 風に吹かれるままどこかへ行ってしまった。人間たちには動きを妨げる根というものがないんだから。

  この開きの元はどうやら近年出たHoward訳にあるようだ。というのも、彼はイタリックの部分をことさら , which hampers them a good deal. と改めてしまっているからだ。動詞の形から見てwhichの先行詞は前の文全体ととるべきだろう。それならWoods訳より原文に近いことになるはずなのだが、Cは誤ってrootsが先行詞だと即断してしまったらしい。何でもないことのようだが、ここは砂の中にさびしく咲く野草の了見の狭さと見せかけて、実は根無し草的な人間に対して警告を発したものと解される。さらにユダヤ人哲学者シモーヌ・ヴェーユのL’Enracinement『根をおろすこと』という発想と重ねてみれば、深刻な人間批判に発展する萌芽をはらんでいることがわかる。そうだとすれば、Cの誤訳の責任は重いが、その原因の一端は英訳にあることにも目をむけるべきかもしれない。
 さて本題にはいる。前回、英訳の影響を問題にしたときの最後の例に戻る。(le petit prince eut) un très joli éclat de rireに相当する訳をいま一度拾いあげてみよう。
A) たいそうかわいらしい声で笑いました。
B) とてもかわいい笑い声を立てました...
C) 楽しそうに、大声で笑った。
D) けらけらと笑った...
 字面から考えて穏当なのはA・Bだが、訳者の工夫が目立つのはDだ。そもそも日本語に比べるとフランス語には「けらけらと」のような擬態語がなきに等しいから、このような訳しかたの入りこむ余地は十分あるのだ。ただ、私の語感では、「げらげらと」に比べると新語の気配が濃く、Aの訳者の世代はこれを文章にとりいれようなどとは夢にも思わなかったにちがいない。しかし、集英社国語辞典第二版はいち早く見出し語として採録し「無遠慮に甲高く軽い調子で笑うさま」と説明している。これを信ずれば、ピッタリとはいかぬまでも、「私」の癇にさわるような王子の笑い方の感じを十分伝えているとみてよい。

点灯夫
  この例に限らず、総じてDには、できるかぎり新しい日本語の感覚を訳文に反映させようという姿勢が感じられる。たとえば、14章allumeur de réverbère「点灯夫」の話の場合。ただでさえ小さい星なのに自転速度が年々増して、今や1分間に一度自転する、つけたり消したりで大忙しだ、と彼から言われる。王子は驚いていう。太字部分に注目してほしい。 
Ça c’est drôle ! Les jours chez toi durent une minute !
That is very funny ! A day lasts only one minute, here where you live ! (Woods 訳)
A) 「へんだなあ!一分間が一日だなんて」
B) 「それは面白いな!あなたの星では、1日が1分だなんて!」
C) 「変だよ!ここじゃ一日が一分間だなんて」
これに対して、Dは思いきって若い人の口調を取り入れようとしている。
それって笑っちゃうね。1日が1分間なんて!」
その後、おかげで休む間がないとなげく男に、王子は「太陽の方向にゆっくり歩けば、昼が続いて休めるだろう」と提案する。ところが、そんなことをしても大して効果がない、とにかく眠りたい、とすげない返事がかえってくる。そこで、王子がいう。
Ce n’est pas de chance.
Then you’re unlucky, (同)
A) 「そりゃ、こまったね」
B) 「うまくいかないなあ」
C) 「かわいそうに」
D) 「それはどうしようもないね」
ここでも、Dはことさら今風の言葉遣いをねらっているが、ならべて見ると、AやCよりは王子の気持に沿った訳に仕上がっているのではあるまいか。
こういう言語感覚は時とともに変化する。テレビ・ラジオの音声を聞いていると、近頃の日本語はずいぶん翻訳調に寛大になったという気がするが、さりとて日本語に近づける訳者の工夫が不要になったわけではない。さしあたり、次の例はそれを証明しているだろう。21章、しきりに訳知り顔に哲理を語るキツネのことばである。
C’est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.
A) 「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶしをしたからだよ」
B) 「きみのバラをそんなにも大切なものにしたのは、きみがきみのバラのためにかけた時間だよ」
C) 「あんたのバラがあんたにとって大切なものになるのは、そのバラのためにあんたがかけた時間のためだ」
D) 「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラはきみにとって大事なんだ」
B ・Cに比べてA・Dの細工が際立つ。ただ、Aの「ひまつぶし」は否定的なニュアンスが強くて首をかしげたくなる。それに対し、Dの「の分だけ」という言い回しはいかにも今風で、私にはピッタリくるのだが、読者の意見はどうだろう。
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