朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
死について考えること、ありますか? 2007.11エッセイ・リストbacknext
 11月1日はla Toussaint ;(英) All Saints’ Day 「諸聖人の大祝日;(プロテスタントでは)万聖節」である。「死者の日」la Commémoration des Défunts (morts)  (11月2日)と混同されて、この日に近親者の墓参に出かける風習がある。仏教徒にとっての盂蘭盆la Fête bouddhique des Morts ;(英)the Bon Festival , the Feast of Lanternsのようなものと思えばよかろう。

ペール=ラシェーズ墓地の納骨堂。
Yann Arthus-Bertrand「パリ航空写真集」より。

 これを機に「死」に思いを馳せるというのはどこの国でも同じらしく、例によってLe Monde 紙を見ていたら、Jean-Michel DumayのLa mort, si lointaine, si présente 「かくも遠く、かくも現存する死」という時評(10月29日付け)が載っていた。
 テーマは二つ。一つは数年前に雑誌「心理学」Psychologiesに掲載された「死」をめぐるアンケートの結果、もう一つは哲学者Marcel Gauchetの「現代人の死」についての考察の紹介である。
 まずアンケート。「考えるけど、忘れてしまう」 « j’y pense et puis j’oublie »というのが、現代フランス人の一般的傾向らしい。くわしくいうと、「考えないし、考えるにしても稀」ne pas penser ou rarement という回答が実に69%に達する。「考える」という比率は女性のほうが男性をやや上回るが、老若の差はほとんどなし。強迫観念、とりわけ「自分の死についての恐怖」obsession, notamment sur la peur de sa propre mort は無い。「もっとも怖いと思うもの」l’une des choses leur faisant le plus peur として「自分の死」をあげた人はわずか6%。この数値は「戦争」la guerre(33%)、「近親者の死」la mort d’un proche (30%)、「失業と家計不安」le chomage et l’insécurité finanncière(15%)、「孤独」la solitude (7%)よりも下回り、ようやく「老化」le vieillissement (5%)を抜いた程度だった。
つぎに、過去との比較から生まれた,ゴーシェ氏の「現代人の死」についての見解。
 氏は第一に「新しい肉体の出現」l’apparition d’un nouveau corpsを指摘する。どういうことかというと、客体的objectifに見て, 「医学のおかげで先人よりも1.3倍ほど楽に生きられること」la médecine nous fait vivre facilemnet un tiers de plus que nos aînés であるが、主体的subjectifに見ても「現代人は寿命がのびただけでなく、快適で安楽な条件のもとに、飢餓も、往年の苦しみ・痛み・発熱も---これらのせいで肉体が不幸の第一の媒体だった---知らずに生きている」non seulement nous vivons plus vieux, mais dans des conditions de confort, de bien-être, à cent lieues de la faim, des souffrances, douleurs ou fièvres d’antan, qui faisaient du corps le vecteur premier du malheur)のだ。
第二は、「新しい時間」un nouveau temps だ。客体的には、スピード優先の時間感覚のためにますます「瞬間の中で生きるように仕向けられている」nous fait vivre de plus en plus dans l’instant。その結果、「自分自身の終末への懸念からすこしずつ遠ざけられている」nous éloignant... ainsi toujours un peu plus de la préoccupation de notre propre fin。主体的には、刻々と死に向って進んでいるのに、「死の経験が昔ほど日常的にほんとうに親しいものではなくなってきた」son expérience ne nous est plus quotidiennement vraiment familière。戦争の記憶が薄れていることひとつを考えても、この指摘はたしかに当たっているだろう。要するに、「新しいこととは、現代の個人の意識の中に<死のない時間>が出現したことだ」Ce qui est nouveau, c’est donc l’apparition chez l’individu contemporain d’un temps sans mort.

パスカル。
(ヴェルサイユ宮殿所蔵の肖像画より)
 この後、記事はこの見方に対する反論として、マスコミの伝える死に言及する。死がないどころか、現代世界には死のイメージが氾濫しているのではないか、というわけだ。事故、戦争、伝染病、災害、テロ、殺人...だが、とデュメー記者はいう。それらは所詮イメージにすぎない。それらは映像であって、生きた体験ではなく、われわれの「死」に対する感覚をむしろ鈍らせてしまうばかりだ。
 結局、記事はBossuetやPascalやNietzscheの名をあげ、「われわれがもっとも一般的に共有するもの、それはわれわれがもっとも分かち合えないものだ」
 Ce que nous avons de plus commun est ce que nous partageons le moins. というまるで判じ物のような一文をもって終わる。
 この文章についてすこし説明しておく。
前半は[ce que + avoir の活用 + de + 形容詞]という構文。
前置詞deは、関係代名詞queの先行詞 ceが中性代名詞であるために添えられたもの。quelque chose de beau 「何か美しいもの」の場合と同じ。また、このdeの後では定冠詞が省かれるため、形容詞の比較級と最上級が同形になるが、de plus communは上の訳文のように最上級であり、しかもそうであることが圧倒的に多い。ここでは後半のle moins と対比されているから、最上級であることがいっそう見分けやすかろう。
 さて、前半を直訳すれば「われわれが持つ、もっとも共通のもの」となる。いうまでもなく、死すべきもの、という人間の条件のことである。同じく後半の直訳を示せば「われわれがもっとも少なく分かち合っているもの」となる。これまた「どんなに文明が進み、情報を共有できる時代になっても、人間は、死ぬときはめいめい個別に死ぬしかない」という人間の宿命をさしている。要するに全体の趣旨は、「死には個々に向き合うしかない」ということになる。
すこし難しくなったついでに、有名なPascalの『パンセ』Pensées の一句を引いて、終わりとしよう。彼は周知のように今から300年も前の人だが、人間が「死」を直視しようとせず、気晴らしに終始している現状に苛立って、この断章を記した。その意味では、人間の将来をとっくに見通していたともいえる。
 La mort est plus aisée à supporter sans y penser que la pensée de  la mort sans péril.
It is easier to bear death when one is not thinking about it than the idea of death when there is no danger.(A.J.Krailsheimer訳)
「死というものは、それについて考えないで、それをうけるほうが、その危険なしにそれを考えるよりも、容易である。」(前田陽一、由木康訳)

筆者プロフィールbacknext

【NET NIHON S.A.R.L.】
Copyright (c)NET NIHON.All Rights Reserved
info@mon-paris.info