朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
「モルグ街の殺人」 2022.2エッセイ・リストbacknext

エドガー・アラン・ポー
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  パリのように世界に知れわたった都市を舞台にした小説で、作者はどこまで実在の町並みを離れた物語作りを許されるのか?Edgar Allan Poeの短編小説The Murders in the Rue Morgue「モルグ街の殺人」を仏訳したCharles BaudelaireのDouble Assassinat dans la Rue Morgueを読んでいるうちに、こんな疑問が湧いてきた。いきさつを説明しよう。
 ポーは推理小説の元祖とされるだけあって、人を煙に巻くのがうまい。傑作 The Purloined Letter [仏名] La Lettre volée「盗まれた手紙」を例にとろう。話の焦点は「手紙」の隠し場所だ。ところが、犯人のD**大臣は隠そうとせず、自分の執務室、それも人目につきやすい名刺差しに入れることで、警察の捜査を免れてしまう。「モルグ街の殺人」にしても、目撃証言や捜査結果をつみ重ねても解けない謎の犯人は、人間ではなく、オランウータンだという落ちがつく。そもそも表題が人を食っている。私は、惨劇の舞台モルグ街はパリに実在するものと決めこんでいた。しかし、morgueはlieu où les cadavres sont exposés pour être identifié「検死用の死体公示所」を意味する語。フランス語を語源とする英語のmorgueも同義だ。実に忌まわしく、そんな名を冠した通りがあるわけがない。ポーのギャグめいた命名にすぎないことになる。それを教えてくれたのが、ボードレールだった。
 彼はヨーロッパで最初の本格的なポー論Edgar Poe, sa vie et ses œuvres「エドガー・ポー、その生涯と作品」を添えて、短編小説14篇の仏訳をおさめた作品集Histoires extraordinaires 『異常な物語』を1856年(つまりLes Fleurs du Mal 『悪の華』出版の前年)に刊行したが、その際「モルグ街の殺人」と「盗まれた手紙」の2篇を冒頭に置き、巻末をThe Mystery of Marie Roget「マリー・ロジェの謎」[仏名] Le Mystère de Marie Rogetで締めくくった。いずれもフランス人Auguste Dupinが後のシャーロック・ホームズを先取りした推理を働かせる作品であり、読者が同胞デュパンに惹かれポーに肩入れするように狙っていることが察せられる。ただし、それだけ特別扱いした分、生粋のパリっ子として、肝心のパリの描き方にもどかしさを感じたかもしれない。というのも、彼は、パリの街区が出てくる箇所で二度にわたって訳注をつけているからだ。
 一つ目は「モルグ街の殺人」で、語り手が脳内で追っている想念の「主題」をデュパンが推理の力だけで見事に言い当てる場面。ボードレールの訳文、丸谷才一訳のあと、註を引用する。
 Vos yeux sont restés attachés sur le sol, ---surveillant avec une espèce d’irritation les trous et les ornières du pavés (de façon que je voyais bien que vous pensiez toujours aux pierres), jusqu’à ce que nous eûmes atteint le petit passage qu’on nomme le passage Lamartine(1), où l’on vient de faire l’essai du pavé de bois, un système de blocs unis et solidement assemblés.(Œuvres complètes de Charles Baudelaire,v.V, Michel Lévy 1869, p.45)
 「君は地面をみつめつづけていた。ラマルティーヌ小路へ来るまで、不機嫌な顔つきで、道路の穴ぼこや車輪の跡を見ていた。(それで、相変わらず石のことを考えてるな、ということが判ったんだ。)あの小路は、実験的に、石板を重ね合せて鋲でとめるやり方で舗装してある。」(中公文庫、18頁)  脚註は(1)の箇所に関連して、以下の通りになっている。C.B.はボードレールのイニシャル。
 Ai-je besoin d’avertir à propos de la rue Morgue, du passage Lamartine, etc., qu’Edgar Poe n’est jamais venu à Paris? ---C.B.(ibid)
 「モルグ街、ラマルティーヌ小路などについて読者に前もって注意しておく必要があるだろうか、作者エドガー・ポーはパリに来たことが一度もない、と。C.B.」
 この部分については、下線部にも問題が潜んでいるが、それは次回にゆずり、二つ目の註を次に引く。「マリー・ロジエの謎」で、犯人捜査が難航し、警視総監が情報提供者に対する懸賞金を増やさざるをえなくなるというくだりだ。ボードレール訳、丸谷訳、註の順に示す。
 A la fin du dixième jour, on pensa qu’il était opportun de doubler la somme primitivement proposée; et peu à peu, la seconde semaine s’était écoulée sans amener aucune découverte, et les préventions que Paris a toujours nourries contre la police s’étant exhalées en plusieurs émeutes sérieuses, le préfet prit sur lui d’offrir la somme de vingt mille francs « pour la dénonciation de l’assassin », ou, si plusieurs personnes se trouvaient impliquées dans l’affaire, « pour la dénonciation de chacun des assassins(1) ». (id. pp.447-448)
 「十日目の夕暮には、懸賞金の額を倍にしたほうがいいということになったし、相変わらず事態に変化がないままついに二週目が終ると、パリには常に巣食っている警察への偏見が、幾つかの暴動となって現れる始末であった。」(同、101頁)
 (1)の脚注は以下の通り。
 Aux amateurs de la vérité locale, je ferai observer, relativement à ce passage et à d’autres qui suivent, ainsi qu’à plusieurs de Double Assassinat dans la rue Morgue, que l’auteur raconte les choses à l’américaine, et que l’aventure n’est que très superficiellement déguisée ; mais que des mœurs parisiennes imaginaires n’infirment pas la valeur de l’analyse, pas plus qu’un plan de Paris imaginaire.--- C,B. (ibid.)
 「この一節や以下の節、および「モルグ街の殺人」の数か所に関し、地域の真実をこよなく愛する読者に注意しよう、--原著者はアメリカ風に話を進めているし、事件の虚構化はいかにも生半可なものにとどまっている。しかし、想像で描かれたパリ風俗にしても、想像に基づくパリ地図と同様、原著者の分析の価値を弱めるものではない、と。」
 この時期、建国半世紀のアメリカの文化はフランスに大きく後れをとっていただろう。おまけに、ポーの才能はアメリカでも認められていなかった。それを思えば、その真価をフランス、ひいてはヨーロッパに伝えたいと願う訳者がポーの弁護に躍起になるのも無理はない。註のうち、パリ風俗に関する言及は、警察の無能を非難してパリで暴動が起る、という辺りの記述が第二帝政当局を刺激しかねぬと懸念し、予防線を張ったかと察せられるが、ここでは深入りしない。それよりも問題にしたいのは、パリの地図があまりに現実離れしていることに触れた点だ。このままでは、パリの地理を当然のこととして受け止めている読者の怒りを買い、見捨てられるにちがいない。

パサージュ
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 たとえば、「18**年の春」とあるから19世紀の物語のはずだが、上に出てきたラマルティーヌ小路は実在しないばかりでなく、passageそのものに関してポーが無知をさらけ出していることを指摘せねばならない。証拠として、Walter Benjamin(1892-1940)の文章を示す。彼はドイツからパリに亡命してきたユダヤ人だが、ボードレールを独訳し、分析したほか、19世紀のパリを論じたことで知られる。彼は名高い『パサージュ論』を次のように切り出している。
 「パリのパサージュの多くは、1822年以降の15年間に作られた。パサージュが登場するための第一の条件は織物取引の隆盛である。...これは百貨店の前身である。」(今村仁司、三島憲一訳、岩波書店)
 ボードレールが註をつけざるを得なかった理由がよくわかるのではないか。(つづく)

 
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