朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
『クレーヴの奥方』の教訓 2023.06エッセイ・リストbacknext

ラファイエット夫人
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 『クレーヴの奥方』La Princesse de Clèves(字義通りなら『クレーヴ大公夫人』)がフランス恋愛心理小説の元祖であることはご存知の方も多かろう。Madame de Lafayetteが1678年に刊行した。『奥の細道』の刊行が1702年であることを思うと、ずいぶん古い時代の作品で、さぞかし難かしかろうと腰が引ける向きもあるかもしれないが、さいわい、この時期の散文は現代フランス語のテクストなみに読むことができる。現代の流行語や、崩れた俗語表現がないぶん、外国人のわたしたちには現代作品より取付きやすい。そこで、カルチャーセンターの教科書にしてみた。
 予想は当たったか?当たったといってよいが、文学作品としてではなく、フランス語教室の教材としてみた場合、読み進めていくにつれて、興味深い問題をはらんでいることが明らかになってきた。ここでは2点にしぼって紹介しよう。
 第一は、plus、moins、tantのような程度の副詞をからめた表現が多用される点。言いかえれば、熟語・成句として辞書にきまって出てくる文型の用例が満載されていて、語学教師たるもの、舌なめずりをしたくなる。歴史にことよせつつ自分好みの物語空間を設定しようという作者の意図の現れだと察せられるが、特に目立つのが比類のなさを強調する文で、第一部の冒頭がいい例だ。
 La magnificence et la galanterie n’ont jamais paru en France avec tant d’éclat que dans les dernières années du règne de Henri second.(Edition de Bernard Pingaud, Folio classique, p.37)
 「豪奢をきわめ雅(みやび)を重んじる風(ふう)が、フランスの国において、アンリ二世の御代の末ほど華やかに栄えたためしはない」(二宮フサ訳、「中央公論社版、世界の文学」3,5頁)
 ne…jamais…tant…que A 「Aほど…であることはけっしてない」という文型が直説法複合過去と組み合わされた結果、Aの優位性がつよく印象づけられることとなる。
 Jamais Cour n’a eu tant de belles personnes et d’hommes admirablement bien faits; et il semblait que la nature eût pris plaisir à placer ce qu’elle donne de plus beau dans les plus grandes princesses et dans les plus grands princes.(id. p.38-39)
 「宮中に、これほど数多(あまた)の美しい女人(にょにん)や、見ほれるばかりの凛々しい殿御たちがおられたためしはありますまい。造化の神が、卑しからぬ貴公子や姫妃(ひめきさき)に、この上もない美しさを、好んでお授け給うたのだと申せましょうか」(川村克己訳、「集英社版、世界文学全集」9 、224頁)
 Ce que …+de plus 形容詞が最上級表現の一つであることはいうまでもない。単純過去が軸になる作品なのに、ここにも複合過去が出てきて、この時制には現在完了の機能があることをあらためて証拠立てている。
 さて、これまでの引例でも顕著だが、写実主義になじんだわたしたちからすると、語彙が貧しく、ふだん見聞きする平明なものに限られている。だから、文章の息が長い(といって、BalzacやProustには及びもつかない)ことに慣れさえすれば、けっして読みにくい作品ではない。たくさんある邦訳に頼ってばかりいないで、原文に挑戦することをお勧めする。
 ただし、その上でいうのだが、なじみ深い単語に限って、わたしたちを惑わせることがある。つまり、昔から使われきた語であるだけに、時として、17世紀特有の語義をもっていることがあるのだ。
 上に出てきたhommes admirablement bien faits「見ほれるばかりの凛々しい殿御たち」を例にあげよう。amirablementという副詞はadmirerという動詞の派生語だ。これはLe Dico(現代フランス語辞典)が記しているように英語admireと類義の語で、ここでも後続のbien を良い意味で強める働きをしている。つぎの動詞の用例を見ても、その点に変わりがないように思える。
 Mme de Chartres admirait① la sincérité de sa fille, (id.p.63)
 あらかじめ文脈を明らかにしておく。ヒロインの奥方が結婚する前の話だ。二人きりの話の際、恋の只中にあるprince de Clèvesから、それに見合う愛が返ってこない、愛しかたが足りない、と不満を洩らされ、Mlle de Chartresは困惑する。かねてから何事も報告するように教育されていたので、帰宅するなり、母親に正直に伝えた、というくだりである。
「シャルトル夫人は娘の正直さに感じ入った」(永田千奈訳、光文社古典新訳文庫、50頁)
 ところが、同じ箇所に二宮、川村両訳とも「おどろく」という訳語を当てている。これは、どうしたことか?後続の文章に読み進むと、謎がとける。
 et elle l’admirait②avec raison, car jamais personne n’en a eu une si grande et si naturelle; mais elle n’admirait③pas moins que son cœur ne fût point touché, et d’autant plus qu’elle voyait bien que le prince de Clèves ne l’avait pas touchée, non plus que les autres.(ibid.)

クレーヴの奥方を演じるM.ヴラディ
(J.ドラノワ監督作品より)
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 「おどろかられるのも無理からぬところで、これほど大らかで自然な素直さをもつお人は、たえておられぬからです。それにしても、それに劣らずおどろかれたのは、娘君のお心に恋しいお気持があらわれていないことで、クレーヴ殿に対しても、ほかのお方以上に心をゆり動かされていないことがおわかりになっただけに、母君のおおどろきはなみなみならぬものがありました」
(川村訳、241頁)
 ここまで読んでくると、admirer②③は「おどろく」の訳語を当てるしかないことがわかる。その上で考えれば、①も二宮、川村両訳に従って「おどろき」と訳す方が自然ではないのか? 
さて、永田訳は後をどう続けたのだろうか?上文のあとはこうなっている。
「身びいきではない。確かに、これほどまでに寛容で飾らない心の持ち主はそういるものではないだろう。だが夫人も、残念ながら娘が何事にも心動かされないこと、クレーヴ公にさえ、特別な感情をもっていないことは認めざるをえない」(同前)
 「身びいきではない」という訳文(原文にはない)をはさんだうえで、③については訳語をはっきり変えてしまっている。これなら前後の辻褄があう。
 ためしに英訳をのぞいてみる。①はadmiredとしたあと、car以下を次のように訳している。
For it could not be fuller or simpler; she regretted, however, that her heart was not touched, especially when she saw that the prince had not affected it any more than the others. (John D.Lyons訳、Norton社、p,15)
 憶測にすぎないが、英訳を参考にしたことが窺える。ただ、それよりも17世紀のフランス語辞典を参照すべきではなかったのか?たとえば、Dictionnaire de la langue française classique(J.Dubois, R.Lagane編)を参照すれば悩まなくても済んだにちがいない。
ADMIRER v.t. Considérer avec stupeur, avec surprise, comme lat. « admirari »
「…他動詞:呆然として、思いがけず見つめる。ラテン語の<おどろき>と同じ」
因みにDescartesのPassions de l’âme 『情念論』(1649)でも基本情念の一つAdmirationは「驚異」と訳すのが常だ。
むろん「感嘆」「敬意」の意味で使われることもあるのだが、本稿は17世紀的特有の用法に留意すべきことを第二のポイントにしたところで終りとする。


 
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