こういう景色を、どこかで見たことがある。どこだろう?ロワールを挟んでナントと隣接する、Trentemoult
(トロントムー)(第2話 《桟橋のある街、トロントムー》参照)である。あの街も、ナントの海運史に重要な位置を占めているし、鰻(うなぎ)の稚魚の魚場もすぐ近くである。だから、川に面した派手な建物群も、その昔は、本当に漁師の家だったのだろう(ここも今では、普通の人が住んでいる)。色とりどりのペンキが、華やかに交錯しながら、全体像としては、ちょっと風変わりなバランスがとれている。漁師というのは、liberaliste(リベラリスト
= 自由主義者)なのだろうか?毎日、大海原で揺られている人々だから、ありきたりの固定観念はないのかもしれない。それに、大漁旗のように、どこからでもよく見える色彩で自分の家を塗っておけば、海岸から遠く離れても、すぐに見つかる。ヨーロッパで、海上にいる場合、地上の目印の1つは、どこの街でも一際(ひときわ)高い、教会の尖った屋根だそうである。だから、どこから見ても間違えないくらい、個性華やかな自分の家は、心の目印になるのかもしれない。
この、ロワールに面した、思い思いにデコボコの漁師の家々をちょっと遠くから眺めてみたら、何故か、"La solitudine
(ラ・ソリトゥーディネ = 孤独) ・・・"というイタリアの歌が耳の片隅を通り過ぎていった。南欧的翳(かげ)りのある歌である。建物の正面が揃っていないファジーな集団が、気まぐれな色遊びの中に建ち並んでいる映像は、私にとって、何となく南欧っぽかったのだろう。しかし、ここパンブフには、南欧の明るさというより、南欧の翳りみたいなものが漂い、その憂いが、川幅の広いロワールの、かなりな揺れの中で、ちょっと心もとなさそうに揺られていた。それは、ここでは、イタリアのような陽光が弾けていないから、というだけではない。歴史という舞台で、もう使われなくなった大道具のような街パンブフの、世捨て人として昇華しきれない想いが、不透明で、白っぽい空気の粒となって、浮遊しているからだろうと思う。もしかしたら、パンブフの街が、歴史の奥底に降り積もる孤独を、歌いたかったのだろうか?この街の粒子のような何ものかが、この歌を絞り出し、私の耳に囁いた。そして、その言霊(ことだま)は、ロワールの波に浮かび、大西洋の波に飲まれ、かつての大型帆船のように、カリブを目指して水滴となった。
そういう、ちょっと旅情っぽい湿り気に浸りながら、桟橋に降りて見ると、そういう湿度を、あっさり断ち切るような、真っ赤な漁船が繋いであった。船の名は・・・?"
T'occupe-pas(トキュープ・パ)! "だって。「お前には、関係ない!」という意味である。なるほどね!私には、関係ない、か!確かに、さっきまでは全然知らなかったパンブフを、ほんのちょっと歩いただけで、「歴史の孤独」などと、感慨深げに言ってみても、彼らにしてみたら、チャンチャラ馬鹿馬鹿しくて聞いていられないのかも知れない。この歯切れのよさや、ちょっとironique(イロニック
= 皮肉っぽい)な冷やかしが、ここの猟師風なのだろうか?やっぱり、『潮来(いたこ)一枚下は地獄』の大海に乗り出していく人は、違う!と感心した。
岸から桟橋まで降りてくるスロープと、その桟橋は、一種のプラットフォームの上に乗って、浮かんでいるのだが、そのプラットフォームには、草がボウボウと生えている。この生え方も、『夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡』風では全くなく、むしろ、のんびりと風に吹かれるまま、知らないうちに増えていく、ぺんぺん草とかタンポポみたいな生え方だった。ここでも、歴史の堆積の上に、苔生していく感じは、いっぺんに裏切られた。それも、あんまりあっけらかんとしているので、思わず笑っちゃう感じだった。街が古道具のように、舞台の片隅に追いやられても、やはりそこには、人々の日常というものが存在し続けている。その、終わりのない毎日の連続は、ここに富を築いた兵(つわもの)達よりも、結局は、ずっと強(したた)かなのかもしれない。栄華が崩れ去っても、城が落ちても、陽は、また昇り、決して歴史に名を残すことのない、普通の人々の毎日は存在し続けるのである。そして、草ボウボウでも、ペンキが剥げても、"
T'occupe-pas ! " 周りのことは、どうでもいい。連綿と、ある意味、執念深く続いていく日常のために、今日もまた、漁に出かける、のだろう。だから、ロワールを何10kmも遡っては引いていく、潮の干満の、時刻と規模のほうが、彼らにとっては、ずっと大きな関心事に違いない。
北原白秋の詩に、『お軽勘平』というのがあった。「お軽が泣いている」で始まる。身も世もなく、泣き崩れているお軽。「勘平さんが死んだ。若いきれいな勘平さんが腹切った」しかし、この詩は、何故かそのうち「(色と匂いと音楽と)勘平なんかどうでもいい」で、終わってしまう。この、<度肝を抜くような、あっけらかん>と、桟橋の草ボウボウは、似ている、と思った。歴史の風向きが変わって、自分達の立っている地面が崩落しても、明日の陽が昇ってしまう人間にとっては、当面、生きていくほうが問題なのだ。もっと沢山の時間が経って、そういうものが全部、過去の1ページになった頃、初めて、「歴史の孤独」とか、「時代の不幸」とか、そんなタイトルを冠して、後世の人達に、振り返って貰えるようになるのだろう。そうなった暁には、あっけらかんのぺんぺん草も、回顧の想いいっぱいに、城跡に生(む)すのかも知れない。それが、<生きる>ということなのかも・・・?
思いがけない " T'occupe - pas ! " で、歴史の1ページに潜む孤独感は、だいぶ希薄になってしまった。立体を別の切り口から斬ってみると、全く違う形になる、という実験をしてみた感じである。「生きるということは、偉いものだ!」という思いで、デコボコの正面玄関の集団を眺めてみた。ついでに川岸に目をやると、潮が引いている。つまり、川幅が狭くなっているのだ。そして、ここが海であることを主張するかのように、黒い海藻が堆積していた。吹き溜まりに積もる枯葉のように、背を丸めて重なっていた。さっきまで浮かんでいたプレジャーボートも、浅くなった水底に着地して、少しずつ傾いていく。ということは、大型帆船が往来した時代は、かなりの水深があったのだろう。長い年月の間に、ロワールが運んできた土砂は、膨大な体積である。トロントムー(第2話
《桟橋のある街、トロントムー》の写真参照)でも、自然に任せておくと、ロワールの土砂で埋め立てられてしまうので、定期的に、土砂を掻き出す作業をしているそうだ。関東平野という巨大なデルタ地帯に生まれながら、あまりに巨大であるために、私は、デルタ地帯の上に居るという、具体的な認識さえ抱いたことはなかった。が、このパンブフで、初めて、デルタ地帯を形成していくほどの土砂というものの威力を、少しだけ想像し得た。そして、小学校で、<岩石園>という設備を使って川の流れを勉強した、『雨水のゆくえ』という、理科の実験を思い出した。河口には、小さい三角があり、<デルタ>と書いてあった。ただ、その岩石園の流れは、あまりにも急流だったので、大河が、ゆっくりと形成していくデルタ地帯を思い描くことはできなかった。
刻々と斜めになっていくプレジャーボートの遥か向こうに、Donges(ドンジュ)の街が広がっている。ドンジュは、水平線に発生した蜃気楼の街のように、平らに平らに横たわっていた。原油の精製所を擁する、向こう岸の街
= ドンジュの恩恵で、このパンブフも、もう1度、歴史の表に引っ張り出されようとしているらしい。今、好むと好まざるとに拘らず、舞台の袖あたりに待機させられているのかもしれない。ただ、この街を着飾らせた、華やかな舞台道具は、もう必要とされないのだろう。鄙びて、磨り減って、角の取れた、このパンブフに漂う、どこか懐かしい風香の中で、色褪せた安堵感を見出した私達には、それは、ちょっと残念な感じだった。
もう1度、あの行灯の明かりの中に、ぼんやりと浮かび上がる、シャドーを帯びたパステル調のパンブフに、浸ってみたくなった。そんなことを思いながら、スロープを昇り、岸まで戻ると、抜け道のような、passage(パッサージ
= 通り道)があった。Passage Dupraud ( パッサージ・デュプロー)。向こう側には、どんな空気が流れているのだろう?もしかして、この道を抜けたら、懐かしいパンブフに戻れるのだろうか?タイム・トンネルに入るような気持ちで、私達は、天井の低い、川と潮の混ざった匂いで湿った空間に、そっと入ってみた。
(後編に続く)
(decembre 2007)
桟橋に 歴史の憂いを 舫(もや)いつつ
赤い漁船は t'occupe-pas
カモメ詠
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岸の際まで迫り出すように、押し合いへし合いしながら建っている感じの、猟師の家々。道に面しているのに、デコボコだし、高さも揃っていないし、パレットに並ぶパステル系の絵の具を、思い思いに塗ったかのように、いろんな色と表情で自己主張している。が、全体を、ちょっと遠くから眺めてみると、不思議にバランスがとれ、一枚の絵となって、うまい具合に額縁の中におさまってしまう。
それぞれの家主が、ロワールの景色と、うまく混ざるペンキを塗った結果、こうなるのだろうか?
猟師の家を、近くによって、部分的に眺めてみると こんな感じ。個々の建物は、こんなに違うのである。
これは、猟師の家の1階と2階の、シャッターの下りた窓の間の壁に描かれた<船>の絵。当時を彷彿とさせる、3本マストの大型船が、水平線に、突如現れる幽霊船のように、漠とした力強さで、描かれている。
今にも消えそうな紋章のように、殺風景な壁に残っている船なのに、確実な推進力で、見れば見るほどこちらに迫ってくる。
デコボコの家が並ぶ岸から、緩いスロープを下って、 川中に作られた桟橋に来る。猟師達の家の全景を見渡せる位置に、この船が舫ってある。その名も、《T'occupe-pas》。そして、派手な真っ赤に塗られた船体は、何だか、笑っちゃうほど、すごく明るい。本当は、彼らの家も、もっと派手に塗りたかったのかも知れない、一応、暗黙の了解で、パステル系にまとまったのだろうか?
桟橋のプラットフォームに、何故かボウボウと生えている草。ロワールの泥が、風に吹かれて堆積し、そこに生えたのだろうか?でも、全然苔むした感じがしてこない。〈国破れて山河あり。城春にして草木深し〉では、全くない。あっけらかん!
潮が引き、ロワールの水位も下がる。川岸の石畳が露出し、岸に打ち寄せられた黒い藻が見えてくる。桟橋が、ずっと近くなっていて、草ボウボウの向こうにドンジュが、はっきりと見えている。
桟橋に降りていくスロープの基点となっている、コンクリートの塊。満潮時は、このコンクリートの半分くらいまで、川の中に隠れているので、黒い藻がいっぱい絡み付いている。
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引き潮で川の水位が下がり、プレジャー・ボートの船底が着地し、少しずつ傾いていく。その、ゆっくりした傾き方に、地球のバイオリズムの大きさみたいなものを感じる。
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ドンジュの遠景を後にし、引き潮で、来た時より急になったスロープを昇る。ということは、満潮時はプラットフォームが、ぐっと持ち上げられて、岸と桟橋は、ほとんど同じ高さなのかも知れない。そこらじゅうに、真っ黒い藻が、歴史の固執のようにべったりと張り付いている。ちょっと怖い感じの、マットな黒。
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