ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第二十三話
バナナは、Quai des Antilles (ケ・デ・ザンティーユ =アンティーユ河岸)で熟す
**序編**

2008.2
エッセイ・リストbacknext

17世紀末から18世紀にかけて、西ヨーロッパ諸国と新大陸東海岸を結んで発生したCommerce triangulaire(コメルス・トリアングレール = 三角貿易と言われた奴隷貿易)が、次々と、3本マストの大型帆船の建造を促し、頻繁な大西洋往復を、果敢に展開させた時代、海運都市 Nantes (ナント)は、フランスにおける奴隷貿易船の主要な港として、驚くべき急成長を遂げている。この暗黒の商業活動に関しては、今までにも折に触れて御紹介してきたが、それぞれのエピソードの付録のように断片的に書いているうちに、いずれ、三角貿易を主題にして、まとまった内容を書いてみるべきだろう、という感じが、私の中で少しずつ形になってきた、今日この頃である。が、同時に、第19 - 22話の4部作で、Paimboeuf(パンブフ)の街を描いてみたら、大西洋を渡り、ロワールを遡って、はるばるナントまで輸送されてきた新大陸の物産について、もうちょっと知りたくなってきた。ので、とりあえず皆さんの中を吹き抜けたカリブの風に、まだライムの青さが香っている、今のうちに、その周辺のお話を書いておこうか、と思う。

というわけで18世紀、すでにヨーロッパでも有数の海運都市となったナントには、「いかにも海運業!」という感じの、あきれるほど大規模で、頑丈そうな港湾設備が、あちこちに残っている。たとえば、ナントの街を横切って流れるロワール川に浮かぶ島(街の中心街と向かい合っている)、Ile Beaulieu(イル・ボーリュー = ボーリュー島)にのこる、Beghin Say(ベガン・セ)の精糖工場 (第9話 《西のベニス、奴隷貿易、そしてトラムウェイ(前編) 参照)とか、巨大なHangar a Bananes(アンギャー・ア・バナーヌ = バナナの貯蔵庫)。バナナというのは、洋ナシなどと同様、後熟(こうじゅく) = 追熟の果実なので、収穫後に熟成させて、ちょうど食べごろ寸前に、市場に出荷できるように調整できる果実であると、昔、学校で習った。しかし、新大陸から帆船で運搬して、さらにナントで寝かせることが出来るほど、後熟なのだろうか?よっぽど青い時に収穫するの?でもね・・・!!! と、ナントにバナナの倉庫があると聞いたときは、かなり驚いた。とにかく行ってみなければ、何も始まらない。いったいどこにあるのだろう?と、急に、バナナの倉庫を見る必要に駆られた。思い立つと、すぐにやらないと気が済まない、せっかちな典型的東京人なので、もう頭の中は、バナナの黄色でいっぱいだった。たっぷりと実った房と房が重なり、肉厚な黄色が、さらに熟した食べ頃の黄色となり、その、コンテンポラリーな画像のコンポジションが3Dに回り始め、加速度的に速くなり、私の気持ちをせかせかと急(せ)いた。バナナの溢れる頭の中で、そんなに急いだら、むいたばかりの皮を踏んで転んでしまう!と、自分で自分の夢想に蹴躓(けつまづ)き、空回りする。そんな図を想像しているうちに、1人で可笑しくなってきた。


2007年の夏、ナントでは、“Estuaire (エスチュエール = 河口)2007”(詳しいお話は、また別の機会に!)という催しが開催され、再開発された川中島のIle Beaulieu(ボーリュー島)が、その名も、Ile de Nantes(ナント島)と改名され、西の首都 = ナントの、1番モダンなスポットとして、華やかにお披露目した。その、一番川下の先端に、Quai des Antilles(アンティーユ河岸)という、植民地っぽい温度の伝わってくる名前の岸があり、そこに、かの《バナナの倉庫》は、長々と横たわっていた。以前、Trentemoult(トロントムー) (第2話 《桟橋のある街 トロントムー》 参照) の岸に、丸い方位図が埋め込まれているのを見つけた時、その中に、《バナナの倉庫》と示してあった。それで、どこかボーリュー島の周辺に、そういうものが残っているのだろうと思って、何となく探してみたこともあったが、結局、その時は、どの建物なのか、見当もつかなかったのである。今回の再開発のお陰で、漸く、どこにあるのかわかってみると、それは意外にも、打ちっぱなしのコンクリートで出来た、一種の、巨大なブロックだった。しかも、私達の愛車、真っ赤なPeugeot(プジョー)205 Junior(205ジュニア)で、目的なく散策に出かける時、よく車を駐(と)めて、ロワール下流に向かって沈む夕陽を眺めたことのある、ボーリュー島の西の端っこだった。

しかし、この倉庫の建築当初、すでにコンクリートが存在していたということは、奴隷貿易より、ずっと時代を下って建てられたことになる。で、少なくとも、新大陸から、帆船で、バナナを運んできたのではないと、わかった。では、「いつ頃、出来たのだろう?」と思いながら、その辺を歩いてみたら、ちょうどいい看板が立っていた。バナナ満載の貯蔵庫内部の写真が紹介され、説明も載っている。それによると、Maurice BERTIN (モーリス・ベルタン) 氏所有の、この倉庫は、第2次大戦直後の1948年に建設され、総面積8,000uにも及ぶ。1970年まで、Guadaloupe(グアダルーペ), Martinique(マルティニック), Guinee(ギニア), Cote d’Ivoire(象牙海岸)産のバナナをストックし、熟成させていた、そうである。なるほどね!そういえば、ボーリュー島には、巨大な製氷工場の跡ものこっている。これも、甚だしく大きなコンクリートのブロックで、僅かに、Entreprise Frigorifique(アントルプリーズ・フリゴリフィック = 冷蔵業)と読めるので、そういうものか思えたのだが、企業名も何もわからない。だから、この建物で造られた、氷の歴史については、残念ながら全く不明である。が、冷房システムのない時代、バナナ貯蔵庫で定温管理をするには、どうしても氷が必要である。という理屈から、私としては、この工場で生産された大量の氷もまた、引込み線に乗ってアンティーユ河岸まで運ばれた、と考えたい。何しろ、この工場の前でも、線路は縦横に交差し、河岸にむかうもの、隣のベガン・セ精糖工場 (の敷地内) にはいっていくもの、etc. 当時の物流の勢いが、チャコール・グレーのアスファルトから立ち上ってくるのだから。

さて、貯蔵庫について、少しだけわかってみるとで、今度は、バナナの輸送船について知りたくなってきた。で、少し調べてみたら、日本でもお馴染みのChiquita Banana(チキータ・バナナ)が、バナナの輸出に画期的なシステムとして、定温輸送船を導入したのが、1903年だということがわかってきた。バナナの後熟に最適な温度・湿度を管理する技術や設備を開発して、輸送船に設置することで、高品質なバナナの供給を実現可能なものにしたそうである。こんな風にして、ナントにも、定温輸送船で大量に運ばれてきた、新大陸とアフリカ大陸のバナナが積み上げられ、それが、温度・湿度の維持された貯蔵庫で、甘く、やわらかく、ちょうど食べごろの黄色になるまで、港の喧騒の中で後熟されていった、ということになるのだろう。

しかしそれは、戦後間もなくの話である。では現在、この後熟の果実は、どんな貯蔵技術を使って輸送されているのだろうか?で、Transport Maritime(トランスポール・マリティム = 海運)について調べてみると、P.C.R.P(Porte Conteneurs Refrigeres Polyvalentes = 多目的冷蔵コンテナ搭載船)という船で、アンティーユ諸島から、週に1回、フランスに輸送されてくることがわかった。このバナナが収穫される現地の気温は、コンスタントに28℃はあるので、コンテナの温度を12-13℃の保つことで、輸送中の熟成を避けることができるそうだ。で、3つの技術があった :

1) 収穫したバナナを収穫地で貯蔵しておく際に、直接、冷蔵システムを備えたコンテナに積載し、自動的な温度管理を始め、そのコンテナを、そのまま輸送船に乗せる。
2) 冷蔵システムのないコンテナに貯蔵する場合は、出港を待つ間、港の冷蔵壁(冷気を出す壁)にコンテナを装着し、その冷気を、コンテナ内部に流通させる。 したがって、バナナの収穫(枝から切り取る作業)は、出港直前に行われる。
3) 出港当日に収穫されたバナナ = banana chaude(バナナ・ショード = 獲れたてのバナナ)に関しては、輸送船の中で、冷蔵作業を行なう。

上記のようにして、とにかく、何らかの冷蔵システムで輸送船に乗り組んだバナナのコンテナは、2-7個積み上げられた形で、船内の冷蔵壁に装着される。13℃の冷気が、コンテナの下の弁から入り、上の弁から出て行く、という流れで、全体を冷蔵するらしい。さらに、冷気を入れる代わりに、排出されるコンテナ内の空気が採取され、その温度と匂いで、万が一、熟成の始まってしまったコンテナがあった場合、すぐにわかるようになっている。そういう場合は、問題のコンテナだけ、全体の冷気の流通から除外するらしい(おそらく、被害を最小限に食い止めるため)。そして、到着地に入港するとすぐ、“Sante Bananes”(バナナの衛生)というテレックスが送られ、専門の職員が検疫のために乗船する、そうである。

今まで、遠洋漁業で獲れた、美味しい、新鮮な魚をさんざん食べていながら、輸送船の冷蔵設備に関心を持ったことさえなかったが、ロワール川の《バナナの倉庫》が海上冷蔵ユニットについて考える、思いがけない機会を提供してくれたことになる。

こういう冷蔵システムのお陰で、1970年まで、ボーリュー島の貯蔵庫に満載されたバナナは、倉庫の前を河岸に沿って走る引込み線で、島の中にある貨物の駅まで運ばれていったのだろう。そこで貨車を乗り換えて、フランス各地に出荷されていったのだろうか?物流ってすごいね!とにかく、甘いバナナを食べたいから、大西洋を越えて輸送する手段を開発する。そして貯蔵し、出荷する。これだけの作業工程を踏みながら、バナナはいつでも、他の果物に比べたら、ずっと安価で、庶民的なフルーツだった。おそらく、大量に輸送できて、梱包・輸送の手間も少ないのだろう。でもきっと、現地で収穫する人の労働力が、バナナの価格のように安いに違いない。もともと、プランテーションで働く黒人奴隷によって収穫されてきたのだから、今でも、過酷な条件で、この後熟の果実のために、朝から晩まで働いている、沢山の、コーヒー色の肌をした人達がいるのだろうと考えた。

甘くて、安くて、美味しくて、携帯しやすくて、剥きやすいから食べやすい、バナナという果実。今度、この黄色い果実の肉厚の皮を剥く時は、収穫に携わった新大陸の人達のことを、考えながら食べてみよう。そうしたら、ちょうどよく熟したバナナの甘さに、もう少し奥深い味わいが加わっているかも知れない。彼らは、自分達が収穫した果実が、遠いヨーロッパや日本まで運ばれて、現地の貯蔵庫で、ちょうどよく熟して、スーパーマーケットの棚に積み上げられていくのを見ることなど、決してないのだから。私の頭の中で、コンテンポラリーなコンポジションとなった、バナナの房と房は、さらに重なり、地球独楽(こま)のように、ぐるぐると回りながら、黄緑から黄色に移りゆく、油絵の具っぽい質感のあるグラデーションを展開していった。その華やかなエキジビションは、熱帯植物の枝にとまりながら、ツンとすましている、極彩色の鳥のように美しく、ついこの間まで、〈いつでもどこでも山のように積まれて売っている、ありふれた果物〉だった、バナナのイメージとは、随分かけ離れていた。この、ジャマイカの国旗のような2色の絵の具が微細に変化していく、新大陸のパレットで、こっくりとした色は、ゆっくりと、時間をかけて混ざり合いながら、まろやかにとろけ始めた。そして、そこから発する香りも、肉厚な芳(かぐわ)しさを、熟成させていった。甘く、食べごろに熟したバナナの房が、1つずつ離れて、回り続ける独楽の遠心力で、ブーメランのように飛び散っていく時、私の脳裏で、濃い、ラム酒のように芳醇な、アンティ−ユ諸島の香が、黄色い花火を炸裂させた。

(Fevrier 2008)


嵐越え 大西洋を 渡り来る 
バナナの黄色に 河岸さんざめく
カモメ詠

ボーリュー島を、上空から撮った写真(1997) = Atelier et Chantier de Nantes (ボーリュー島にのこる、ナント造船所の建物)に常設展示されている写真。この川中島がボーリュー島で、ナントの中心街は、この写真の上部に位置している。バナナの貯蔵庫は、この島の左端(ボーリュー島の最西端)に横たわる、長方形の建物で、このあたりが、アンティーユ河岸。



ボーリュー島西端と、周辺地域の地図。
※画像をクリックすると、拡大表示されます。




ボーリュー島の最西端を、ロワール川を往来するナヴィバスから眺めた様子。写真中央に聳える巨大なクレーンは、Grue Titan(ギリシャ神話の、タイタンのクレーン = 絶大なパワーのクレーンという意味)と呼ばれ、ナント造船所の最盛期に活躍したマシーン。今は機能していないが、この街の歴史の、重要な1ページとして保存されている。左側に長々と平らなコンクリートの建物が、再開発によって、たくさんのカフェを擁した、バナナの倉庫。右端には、ベガン・セの、青と白に塗られた華やかな製糖工場が見える。




バナナの倉庫の正面玄関。現在は、その名も、"Cargo"というカフェになっている。




カフェ "Cargo"の側面。ここに、"Hangar a Bananes" (バナナの倉庫)と明記されている。



バナナの倉庫内部の様子(1948年)。打ちっぱなしの長方形のコンクリートの中に、ハトロン紙のように丈夫そうな紙に包まれたバナナが、積み上げられている。「これ、全部バナナ?!」という感じ。




トロントムーの岸に埋め込まれた方位図。バナナの倉庫を初めとし、タイタンクレーン、ドュビジョン造船所、ナント造船所、ノートル・ダム・ド・ボン・ポールなど、海運都市ナントのメイン・スポットが書き込まれている。




今回の再開発で、沢山のカフェ群の集合体と化した、バナナの倉庫。対岸にある、Ste.Anne(サン・アンヌ)の丘から見ている。が、横に長いので、広角レンズがないと、全景は入りきらない。




再開発に向けた工事が始まった頃の、バナナの倉庫。あまりに殺風景なコンクリートだったので、 いったい何なのか、疑問さえ抱かなかったのである。倉庫の背後には、現在では撤去されて、もう少し下流に移動された、4色の、ちょっと華奢なクレーンが、city artのように、お洒落に並んでいる。





巨大な、製氷工場。これも、コンクリートの打ちっぱなし。工場の手前には、引込み線の線路が複雑な模様を描きながら、今も、確かな存在感でアスファルトに埋まっている。その線路を伝って行くと、この写真の左手奥に、青と白に塗られた高い煙突の見える、ベガン・セの製糖工場内部にまで、続いている。





アクセス
- Paris - Monparnasse (パリ・モンパルナス)駅から、TGV Atlantique のLe Croisic (ル・クロワジック) 方面行きに乗り、Nantes (ナント)下車。(約2時間)
- ナント駅北口で、トラムウェイ1番線 Francois MITTERAND (フランソワ・ミッテラン) 方面に乗り、Chantier Naval (シャンティエ・ナヴァル) 下車。ナント駅から、5つ目の停留所。
- 停留所から、ロワール川を隔てて、向こう側が、もう、L’Ile Beaulieu (ボーリュー島) = 現在では、L’Ile de Nantes (ナント島)。Pont Anne de Bretagne (アンヌ・ド・ブルターニュ橋)を渡れば、島に入れる。が、Hangar a Bananes (バナナの倉庫)のあるQuai des Antilles (アンティーユ河岸)までは、かなり歩く。バスは、滅多に来ないので、頑張って、下流を目指し、西へ西へと、新大陸に向かって歩いてください。
- Quai de la Fosse (フォッス河岸)と、Trentemoult (トロントムー) を繋ぐNavibus (ナヴィバス = 水上バス)に乗るなら、トラムウェイで、ひとつ先の、Gare Maritime (ギャール・マリティム) で降りれば、目の前が、乗船所になっている。
- Musee de Jule VERNE (ジュール・ヴェルヌ・ミュージアム)に行くには、トラムウェイで、駅から3つめの Place du Commerce (コマース広場)で降り、21番の市バス Gare de Chantenay (シャントネー駅)方面に乗る。La Butte Ste Anne (聖アンヌの丘)で下車。
- ボーリュー島の中は、漠然と広いので、歩くのは大変!市営のパーキングに貸し自転車があるので、それも1案。コマース広場に隣接したフェイドー島地区に、トゥーリストオフィスがあるので、まず、そこに行ってみるのがお勧め。

筆者プロフィールbacknext

【NET NIHON S.A.R.L.】
Copyright (c) NET NIHON.All Rights Reserved
info@mon-paris.info