大学在学中、イッパシの就職活動をして、東京京橋にある某総合食品メーカーに勤めるようになった私は、いきなり、海外事業部に配属された。おそらく、仏文科卒という、ただそれだけの理由だったのだろう。そして、<会社で仕事をする>ということが何なのかも、全くわからないまま、在ヨーロッパの法人管理を担当することになってしまった。フランス、ドイツ、オーストリア、スペイン、…。そこには、欧州事務所の傘下にあった、アフリカ諸国の法人も含まれていた。当時は、ほとんどの国とTELEXで交信していた時代で、TELEXを流すためには、パンチカードのように、穴の開いた紙テープを作らなければならなかった。手回しオルガンが穴の開いた紙を読んで音楽を奏でるように、TELEXは、穴の開いたテープを読み取って、文章を伝えるのである。FAXはまだ、(おそらく)大変な高級品だったから、極少数の海外事務所にしかなく、私のいた海外部にも、たった1台、今の業務用コピー機より大きなFAXが、TELEX室の奥のほうに設置してあるだけだった。しかも、夕方5時近くに送ろうとすると、あっちこっちの会社の人が、いっぺんに送るらしく、なかなか、つながらなくて、それだけでも定時に帰るのは不可能になる職場だった。しかし、国際電話が、ものすごく高い時代だったから、こういう古典的通信手段で、みんな一生懸命、コミュニケーションをしていた。FAXの場合は、受信したら、紙が出てくるだけだが、TELEXの場合は、受信が始まると、TELEX機が、自動的に、紙テープに穴を開けていった。それを、また機械に通して、画面で読むのである。このTELEX受信は、かなり機械的な、大きな音を発するもので、その音が聞こえると、この機材の向こうで、海外の誰かが働いている、という、不思議な感覚が沸いてきた。それは、昔の新聞の輪転機が回る様子などにも、ちょっと似ていて、自分が、世界情勢とか、報道とかに携わっているような、今の言葉で言うと、リアルタイムの、生な感じでいっぱいだった。
英文ワープロさえも、やっと導入された頃だったから、日本語ワープロは、まだ発明途上だったのだろう。活字を一つ一つ拾っていく、和文タイプ専門職の人が会社にいて、自分の部署の偉い人達のハンコウを沢山貰って、和文タイプを申し込むと、初めて日本語の公式文書が出来てくる、そんな時代である。つまり、結構昔のお話なのだ。そういう毎日の中で、とりあえず自分でも、「一応、仏文科だったのだから」という、何の役にも立たない、妙な気概で、私は、パリ事務所から、時々送られてくるレポートなどを、読んでみた。無論、専門用語ばかりで、しかも、ヨーロッパの工場では飼料用リジンを生産していたから、ほとんどの場合、どうしようもなくトンチンカンな内容なのに、それでも、漠然と読んでいた。そして時々、"Beghin Say (ベガン・セ)"という大手精糖会社の名前が出てくるレポートがあった。その頃、私がいた会社は、健康的な合成甘味料の開発を手掛けていたから、ヨーロッパの甘味料市場の記事が送られてきていたのだろう。仏文科を出たからと言っても、フランス語など、全く必要とされないのが、極一般的大卒女子の、あたりまえな職場環境だったから、たまに、フランス語のプレス・クリッピングなんぞが回ってくると、何となく嬉しくなって、一生懸命読んでいた。そういう、若い時代のお話である。
さらに、エジプトのカイロ事務所も、ドイツ法人の傘下にあったので、広くヨーロッパを担当することになった私には、思いがけず、エジプトからも便りが届いた。日本から見たら、エジプトというのは本当に遠い国だし、〈ピラミッドとツタンカーメン〉に集約される古代の王国だから、カイロ事務所担当というのは、何となく、斬新で、面白そうな気がした。毎月送られてくる、事務所経費のレシートも、アラビア語だったし、エジプト・ポンドとUS $で計算されていた経費明細を見ていると、古代エジプト展にでも出かけるときのようなワクワク感で、新入女子社員の、ほとんど役に立たなそうな毎日にも、ちょっとだけ鮮やかな彩りが加わって、楽しい感じがした。私が、OLというものをやりながら、楽しいと思えたのは、このエジプト事務所に関わっている時だけだったと思う。特に、海外法人管理、という仕事は、海外から何も言ってこなければ、全く暇なのである。なので、あまりに暇で身が持たない時、自分のデスクで、ひそかにラテン語の勉強をしてみた。もともと海外部は、横文字の書類が多かったから、私が、御茶ノ水のアテネ・フランセで始めたばかりのラテン語の教科書を広げていても、誰も、何とも思わなかったらしい。一方、月次報告などの時期になると、そこらじゅうの事務所から、いっぺんにいろいろな郵便物が届き、FAXとTELEXが、山のように積み上げられ、暇と多忙の差が大きい、季節労働者のようなポストだった。
そんなある日、あまりに暇だったので、ファイルがいっぱい詰まった引き出しを明けて、奥のほうまで覗いてみたら、一番奥に、『カイロのマーケット報告』という、面白そうなレポートが入っていた。興味津々で引っ張り出してみると、そこには、彫りの深い、アラビアン・ナイトから出てきたような人達が溢れかえるスークで、丸くて平らなパンが売られ、水パイプが並べられている写真が満載だった。「へーえっ!!!」と感心し、それ以後、時間がある時は必ず、そのレポートを読んでいた。その後、初めてフランスに来た時に、ひどく驚いたのは、そのレポートにあったような、オリエンタルなアラブ系市場の光景が、フランスのそこここに、当然のように存在していているということだった。しかも、それに慣れてしまうと、フランスでアラブ系文物に出会うのは、むしろあたりまえで、出会わない方が希少だということが、だんだんわかってきたのである。そんなこんなで、フランスに来てから、かつて新入社員だった頃に見た、カイロのスークの写真が、妙に懐かしく思い出されてならなかった。
日本にいたら、フランスとエジプトを結びつけたりしないのに、フランスに来てみると、エジプトのみならず、中近東諸国全般に、自然な親近感を覚えるようになる。CDG(シャルル・ド・ゴール)空港に着くとすぐ、その感覚が戻ってくる。税関を出た途端に、アラブ系のヤミ・タクシーの勧誘が始まり、荷物を乗せるワゴンを集めている人、掃除している人、エールフランスのバスの運転手さんも、しばしばアラブ系。私は、シャルル・ド・ゴールでアラビア語が聞こえてくると、「ああ、フランスに着いたんだ!」という気がしてくる。何とも言えない、不思議な懐かしさである。極東(Far east)は、西ヨーロッパから見て遠いという意味だから、ここまで西に来てみれば、近東は、ほんとに近いのである。そして、日本からは、遠い遠い大陸アフリカも、フランスから見れば、すぐそこにある。何しろ、ナントからチュニジア南部のザルジスまで飛んでも、2時間半くらいの距離である。冬場、極端な向かい風となる季節風の中を、羽田から那覇まで飛んだら、3時間もかかる。だから、フランスから見たら、アフリカは目と鼻の先なのである。地中海を越えさえすれば、もうアフリカ大陸!なのだから。昨年、広島から、瀬戸内海を船で渡って四国の今治まで行った時、夫は、「ここは、日本のアフリカだね!」と言った。彼らにとっては、瀬戸内海は、地中海っぽい内海なのだろう。それに、そもそもが大陸の人間だから、島から、海を渡って着いたところも、やっぱり島で、しかも同じ国の中にいる、という感覚が沸いてこないのかもしれない。彼らが海を渡って行き来するのは、大陸と大陸の間なのである。そして、四国を日本のアフリカである、と考える、夫の土地感とか距離感みたいなものに、かつてアフリカ大陸をとりこんで、大規模な三角貿易を展開した、ヨーロッパ大陸人、というか、ナント人というメンタリティーや肌合いみたいなものを、明確に感じた。自分達 = 日本人のDNAには全く存在していない、この大陸的感覚、そういうものに時々出っくわすと、「ああ、この人はやっぱり、大陸の人なんだ!」ということを思い出す。
余談になるが、ナントの定期市の中に、特に、アラブ人のお店の多い市がある。Mediateque(メディアテック = 図書館)と、La Gloriette(ラ・グロリエット)という市営プールに挟まれた駐車場に、毎週水曜と土曜に立つ市場である。八百屋と用品屋は、ほとんどアラブ人、という、この市場で、日本のキュウリのように、深緑の皮をした、小型のキュウリを見つけてきた日本人がいた。ナント大学に留学していた神戸の女子大の学生さんで、私のフラメンコ教室の生徒さんだった。あまりに感動した彼女は、レッスンの日に、その、貴重な小型キュウリを3本もくれた。私も、さっそく小口切りにし、取って置きの鰹節と一緒に、キッコウマンの御醤油でおし頂くと、本当に、緑の皮にキュウリの味が充満した、日本のキュウリに似ていた。フランスのキュウリは、大きすぎて、水っぽいだけである。フランス人は、生クリームとパセリなんかで和えて食べているから、あの水っぽいキュウリでも大丈夫なのだろうが、刺身のツマなんかには、絶対になり得ないキュウリである。ところが、このキュウリは、美味しかった。久しぶりだし、貴重品だから、何十倍も美味しかった。そのキュウリは、ナントじゅうの日本人の間で、いっぺんに有名になり、毎週土曜日になると、みんなが買いに行った。それは、市場の中の、ほんの一角の小さな八百屋だったが、店員さんは5人も6人もいた。たぶん、家族総出で来ているのだろう。しかし、計算のできる人は1人しかいない。あとの人は、袋に詰めたり、御礼を言ったり、と、細かい分業が成り立っていて、フランス人のお店にはない、豊富な労働力を抱えていた。かのキュウリは、おそらく、あの巨大なキュウリを作るために間引きされてしまったものだったのだろう。お店の隅のダンボールに積まれていて、1本 = 1フランだった。アラブ人の女性も時々、買っていたが、それは、たぶん安いから、というだけの理由だったのろう。あのキュウリを目指して、あのキュウリでなくては、食べた気がしないから、毎週、一生懸命買いに来る、沢山の日本人に、彼らは、新しい市場開拓の可能性を考えただろうか?たぶん、アラブ人には、そんなことをアクセク考えなくてもいい体質があるような気がする。もともと、地面を掘れば、石油の出てくる土地を、創造の神から与えられてきた人達である。だから、間引いたキュウリは、やっぱり、1本 = 1フランでいいのかもしれない。
こんな風に、ナントでも、アラブ人は逞しく生活している。奴隷貿易で潤った街だからかどうかは不明だが、ブラック・アフリカの人達も大勢いる。街のあちこちに、ケバブ・サンドイッチのお店が連なり、オリエンタルなお菓子屋もあり、水パイプも売っている。北アフリカは、本当に近いのだ。私が、京橋で新入社員だった頃、アラビアン・ナイトを紐解くように、期待と好奇心でワクワクしながら読んだ、『カイロのマーケット報告』によく似た光景は、ここナントでも、あたりまえの景色だから、今更、誰も、何とも思わないのだろう。しかし、Far Eastから来た私には、それは、それだけで、もう大変なことなのだ。千夜一夜物語のような、摩訶不思議な雰囲気が、18世紀の美しき建物群の1階のテナントに入居し、伝統的フランスと、スパイシーなアラブの匂いが、混在している。そういうナントの街を歩きながら、平らなアラブのパンを見るたびに、カイロのスークの写真が、鮮明に思い出されてならなかった。アラジンが、指輪で擦った古いランプから、煙のような魔人が浮かび上がったように、私が、京橋のファイルケースの奥深くにしまいこまれた、マーケット報告を捲っているうちに、もしかしたら、薄紫の、意味ありげな煙が漂っていたのかもしれない。その煙は、うっすらと私を包み込み、長い時間をかけて、このナントの街まで誘導してきたのかもしれない。知らないのは、私だけだったのかも?
(前編に続く)
(septembre 2008)
銀色の パイプの煙に 揺れ揺れて
スークの幻影 石壁に香る
カモメ詠
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フランスのテーブルでお馴染みの、Beghin Say 角砂糖のパッケージ。
広島港から、四国の今治までの定期ローカル船の中から撮った写真。瀬戸内海の無数の島々と橋を通り過ぎながら、次第に近づいていく四国。この状態が、フランス人の夫にとっては、地中海を越えて到達する、アフリカ大陸に相当するらしい。
市電のメディアテック停留所。小さなホームに人が溢れ、後ろに広がる、朝市の喧騒と混ざりあい、熱いエネルギーと、アラブのスパイスが、混沌と混在している。
停留所の後ろに広がる市場。人、商品、ダンボール、テント、…。ほとんど、《スーク》そのもの!アラジンが魔法のランプを売りに行ったのは、こんな市場だったのだろう?と、想像したくなる、フランスっぽくない朝市である。
この市場は、雨の日も、こんなに人だかりがしている。
水パイプばかり飾ってある、ショーウィンドー。細い廊下のアーケードなので、向かい側のお店が映ってしまっていて、ちょっと見難いけれど、沢山のパイプが、アラビアンナイトっぽい、不思議な雰囲気たっぷりに並んでいる。フランスでは、トルコ語から来たらしい、Narguilet (ナルギレ)という名で呼ばれている。
ナントの中心街に、今も美しく君臨する、18世紀の建造物群。地盤が砂地のナントでは、長い歳月の後、建物が、こんな風に曲がったり、歪んだりして、隣の建物に寄りかかりながらも、建っている。(c.f. 第3話 フェイドー島と奴隷貿易)
奴隷貿易で巨万の富を築いた商人達は、競って、凝った意匠の、豪奢なアパルトマンを建てた。この建物群の裏側の1階テナントには、今、サンドイッチ・ケバブを初めとして、イスラム香るお店が軒を並べている。
18世紀に建築された、華麗なアパルトマンの1階に並ぶ、テナント。数々のサンドイッチ屋は、その名も、アラジン、イズミール、カルタゴ。そして、《イスラム系書店》と書いてあるお店には、アラブの衣装がぶら下がっている。この歩道を歩いている人達も、陽に焼けやすい肌を持った、中近東の人が多い。<Taxiphone>というのは、長距離電話をかけられるお店らしい。アフリカ大陸にいる家族にかける電話なのだろう。
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