ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第三十話
サトウキビは、Boite Bleue (ボワット・ブルー = 青い箱)で白くなる
**中編**

2008.11
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(前編から続く)
精糖産業とNantes(ナント)の繋がりは、かなり古く、密接である。ちょうど、融けた砂糖が、ナントの街に、飴のようにくっついているような、離れがたい関係である。17世紀、かの奴隷貿易で飛躍的経済発展を始めたナントは、沢山の商船を、大西洋に出帆させていた。その商船で運び込まれる多様な物品の中でも、砂糖は、この街の基幹産業を構築していく、重要な要素だった。最初の製糖工場建設は、1653年まで遡る。そして18世紀中頃になると、川幅の広いロワールに港湾設備を擁したナントは、優れた海運機能を駆使して、22もの製糖工場を稼動させていた。この時代、サトウキビは、ナントが、植民地から持ち込んでいた物品全体の、実に60%を占め、19世紀に入っても尚、海上貿易高の50%を砂糖に依存していたそうである。では、いよいよ、いまや多国籍企業となっている、フランスの代表的精糖メーカー = Beghin-Say (ベガン・セ)登場に至るまでのお話を始めていきたい。BeghinとSayという2人の人物の、共同経営のように思いたい、この企業名は、いったい、どこから発生してくるのだろう?

19世紀初頭、繊維産業に携わっていたSAY (セ)一族の1人、Louis SAY (ルイ・セ)なる人物が、1813年の綿花大暴落を機に、別の事業へのシフトを考え始めた。そして、ナントで製糖工場を所有していたARMAND (アルマン)という人物に、SAYは、共同事業計画を持ちかけ、アルマンと共同経営者になることで、精糖事業への参入を果たした。どうして繊維業から精糖業なのか、その辺は不明だが、おそらくナントの精糖業界は、飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、綿花で積み上げた資産が減らないうちに乗り換えるには、願ってもない産業だったのだろう。しかも、この事業は、時を待たずしてSAYの単独経営となり、“ Louis SAY et Cie( ルイ・セ商会)”に社名変更されてしまった。この時点で、ARMANDの名前は、フランス精糖史上から消えてしまう。日本でも近年、M&A (Mergers & Acquisitions = 合併と取得) が頻繁に報道されるようになったが、新規事業への参入、企業グループの再編、業務提携, etc. の、極めて前向きな、発展的語彙の後ろ側に潜んでいる危険には、かなり恐いものがある、ということが、このナントの製糖史をちょっと見ただけでも、よくわかってくる。何はともあれ、SAYは、こんな風に、精糖界での発展を続ける。つまり、繊維産業からの鮮やかな転身に成功したのである。そして1832年に、Ivry sur Seine (イヴリー・シュル・セーヌ = セーヌ沿い、パリ南東の郊外)に“ La Nouvelle Raffinerie de la Jamaique ”(ラ・ヌーヴェル・ラフィヌリー・ド・ラ・ジャマイク = 新ジャマイカ製糖工場)を創立した。

同じ頃、全く別の土地で、BEGHIN(ベガン)のアヴァンチュールも始まっていた。1824年、Joseph COGET (ジョゼフ・コジェ)という人物が、Lille (リール = ベルギーとの国境近く)の少し南に位置する、Thumeries (チュムリー)に、“ la Sucrerie de Thumeries ”(ラ・シュクルリー・ド・チュムリー = チュムリー精糖会社)を興し、1836年には、精糖作業に蒸気機関を導入することで、近代化への道を開いている。そのジョゼフ・コジェの娘が、1839年、Aotoine BEGHIN (アントワーヌ・ベガン)と、結婚したのである。こうしていよいよBEGHINの名前が、精糖史に登場する。コジェには、息子が2人いたにも拘らず、コジェの死後、その後継者となったのは、BEGHINだった。そして、ベガンの息子Ferdinand (フェルディナン)は、父がコジェから継承した企業を、1871年から取り仕切り、1895年に亡くなるまで、大きく発展させていった。さらに、フェルディナンの2人の息子は、1898年に“ Ferdinand BEGHIN ”(フェルディナン・ベガン)という名称で、精糖工場を創る。この工場も発展を続け、1930年には、Arras (アラス = リールの南)の中央精糖会社となり、次々と、他の精糖工場を傘下に吸収していった。しかし、ウォール街の大恐慌(Black Thursday = ブラック・サーズデー)が、下落率12.8%で世界経済を激震させたのは、1929年である。それは、勿論すぐに、ヨーロッパ市場にも波及しているのだから、その翌年に、依然として邁進を続けているBEGHINの企業力が、いかに絶大なものだったか、ということは、想像に余りある。

一方、イヴリーに、新ジャマイカ製糖工場を創立したSAYは、アルマンから経営権を獲得したナントの工場から、今度は自分が追い出されてしまった。まさに、精糖戦国時代の様相である。ところが、SAYを追い出した人間も、その後、倒産の憂き目に会う。こうしてSAYは、1935年、再びナントに新規の工場を開いた。この建物こそが、Beghin−Sayの青い大看板も鮮やかに、現在も、ボーリュー島で稼動し続ける、精糖工場であるが、この時点では未だ、BeghinSayは出会っていない。こちらも、1929年の大恐慌の直後、しかも、第2次大戦前の不穏な空気の中での事業拡大だから、戦国の猛者(もさ)達は、すごい。そして、この建物が、事実上、フランスで建設された最後の精糖工場であり、ロワールを挟んでナントの中心街と向かい合う絶好のロケーションを、現在に至るまで、占有してきたことになる。この工場は、中型客船も接岸出来る、Quai President WILSON (プレジデント・ウィルソン桟橋) にも近く、ナントの経済活動を左右する重要な役割を担い続けてきたのだろう。恵まれた立地条件に君臨し、業界を統治してきた、精糖産業の底力を見せつけるように建ち続けたBeghin-Sayは、70年以上を経た今も、やはり同じように、大きなヴォリュームで建っている。ロワールを渡ってくる、強い風を遮るものがないほど平らなボーリュー島では、どこにいても、この華やかな青い工場が目に入ってくる。

さて、飛ぶ鳥を落とす勢いのBEGHINグループは、1967年、いよいよ、ボーリュー島を支配するSAYグループを、その管理下に収めることに成功した。これが、Beghin-Sayの始まりだが、Beghin-Say (ベガン・セ) という合併が、オフィシャルに完遂されるにはは、1972年を待たなければならない。その後も、精糖戦国時代は続き、1986年、Beghin-Sayは、イタリアのFERRUZZI (フェルッチ)に引き継がれた。かつてSAYが建てた工場は、1991年にすっかり近代化され、建物全体を、白と青のペンキで華やかに衣替えして、それ以後、《Boite Bleue (ボワット・ブルー = 青い箱)》と呼ばれている。翌1992年、FERRUZZIは、ERIDIANA(エリディアナ)グループと合併した。しかも、2002年12月13日(あまり、いい日付ではない感じ)、この企業グループは売却された。UNION SDA とUNION BSという2つの企業が、Beghin-Sayを買った。2003年は、この2企業の合併に伴う作業に費やされ、2004年10月1日、TEREOS (テレオ)という新しい精糖企業として、市場にスタートしている。

こんな風に、企業グループとしての名称が、消費者が追いついていかれないほど、目まぐるしく変わっていく中で、この《Boite Bleue》は、今も、Beghin-Sayの大看板を、青々と掲げて、潮香の浮遊する、蒼い川風の中で、ロワール河畔を凌駕している。平らなボーリュー島の全景を一望に見下ろすほど、高くて大きな塊のこの建物は、長く過激な精糖戦国時代を生き抜いて、現在も尚、稼動している。従業員200人を有し、年間12万トン(毎日600トン)の砂糖を生産する。青い看板は、そういう自分の長くて、大きくて、ちっとも甘くない歴史に、充分満足しているようだった。そのBeghin-Sayという文字は、ちょっと踊っているようで、おどけた軽さが目に嬉しい。が、その看板を護り続けるために流れた歳月は、精製された砂糖のように、白くはなさそうだった。白く輝く砂糖になる、甘い香りのサトウキビ、白く丈夫なコットンになる、ふわふわ弾けた綿花、そういうものを収穫する人の、労働力も労働条件も大変なものだが、それを原材料として輸送し、精製し、商品として市場に出していくにも、過酷な闘争が繰り返されている。だから、BEGHINSAYも、共同経営、買収、統合、合併、およそ市場にあり得る、すべてのメソッドと、あり得ないメソッドさえも活用して、形(なり)振りかまわず、生き残ってきたのだろう。つまるところ、その白い、甘くとろける砂糖のパッケージに、相変わらず、Beghin−Sayと印刷してあるのも、尋常一様なことではないのだから。
(後編に続く)

(novembre 2008)
古渡りの 珊瑚にも似て 甘やかに
海路に溶ける サトウキビの夢
カモメ詠

ボーリュー島最西端(グレーのクレーンのあるところ)から始まる、Quai President Wilson (プレジデント・ウィルソン河岸)。





停泊中の客船(これは、2005年秋のことでした)は、Astor Shippingというドイツ船籍の船で、長さ176.2m、幅22,61m、最大速度20ノット。428人の乗客を乗せ、279人のスタッフで航行中。9月18日にドイツのBremerhavenを出港し、大西洋を南下し、ジブラルタル海峡から地中海に入り、10月5日のニースが、最終寄港地となる。







プレジデント・ウィルソン河岸は、こんなに大きなクレーンが林立できる、巨大な空間。クレーン足元を走っている、自転車と比較!








精糖戦国時代を生き抜いて、尚、ボーリュー島に君臨し続ける、Beghin Say の<青い箱>。






Beghin Sayの青い字が躍る、敷地内に入っていく、大型トラック。








工場の壁を外側から見た様子。何でも、大型サイズで出来ている!








度重なる、買収、合併の後、現在は、"TEREOS"という会社になり、表玄関の看板には、"TEREOS"の下に、<ナントの精糖所>と加えてある。






植民地の産物的雰囲気を醸し出す、褐色の角砂糖<La Perruche = ラ・ペリュッシュ>。南の海に浮かぶ島、椰子の木、緑色の鸚鵡が、オレンジ色のパッケージを飾っている、この楽しい、甘い箱にも、フランス精糖史上の、飽くなき戦いが隠されている。







(P.S.)
甘い、サトウキビのお話を読んでいただいている最中に、とんでもない事態が、ボーリュー島を襲っていた。2004年10月から、Tereosという名称で、業界に生存し続けていたBeghin Sayの工場 = ボワット・ブルーが、閉鎖の憂き目に遭う、という話を耳にしたのである。大急ぎで最新ニュースを検索してみたら・・・ :
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ヨーロッパ製糖業への規制の改定、特に、精製に対しての助成廃止により、ヨーロッパ製糖業界の経済状況は、急速に悪化した。この結果、Tereos グループの経営は、大きく減速し、2008年9月30日現在、1千万 Eurosの損失を計上している。

すでに、2年前から赤字経営を余儀なくされていたTereosが、今後、ナントの工場を存続させていくためには、年間生産量を2倍に増やし、就労人員も増強しなければならなかった。現在まで、172人の従業員で、年間、12万トン = 1億5700万ユーロを計上していたナントの工場 = Beghin Sayのボワット・ブルーが、年間生産量25万トンを目指すためには、1千万ユーロの再投資が不可欠だった。

その結果、Tereosは、2008年11月12日、ナント工場の閉鎖を発表した。そして、172人の従業員を、Tereosグループが、フランス国内に有する、9つの製糖工場に再就職できるよう、最善を尽くしながら、2009年の夏までに完全に閉鎖する、というスケジュールになった。
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つまり、私が、このエピソードを連載している真っ最中に、あの、爽やかなボワット・ブルーが、ボーリュー島の景色から、消えてなくなってしまう事態に陥ったのである。長い長い製糖史の流れの中で、1929年の大恐慌を、それぞれに生き抜いてきた、戦国の猛者 = BeghinSay、その2人の名前を高々と掲げて、ボーリュー島の一部のようになっていた、青くて、白いボワット・ブルーが、来年のサマータイムの頃には、同じくらい青い夏の空に、飲み込まれるようになくなってしまうのだろうか?EUという新しい体制が、重くて大きな車輪を押しながら、やっとのことで軌道に乗ろうとしている矢先に起こった、今回の世界的金融大恐慌が、フランスで6番目の都市 = ナントに、のんびりと浮かんでいたボーリュー島にまで、押し寄せてきたのかもしれない。(2008.11.26)

アクセス
- Paris - Monparnasse (パリ・モンパルナス)駅から、TGV Atlantique のLe Croisic (ル・クロワジック) 方面行きに乗り、Nantes (ナント)下車。(約2時間)
- ナント駅北口で、トラムウェイ1番線 Francois MITTERAND (フランソワ・ミッテラン) 方面に乗り、Place du Commerce(コマース広場)下車。ナント駅から、3つ目の停留所。
- コマース広場で、市バス42番 Vertou (ヴェルトゥー)行き、あるいは、52番 Hotel de Region (地方庁) 行きに乗って、Gustave Roch (ギュスターヴ・ロッシュ)で、降りる。 コマース広場から、3つ目。2つ目の停留所で、すでにボーリュー島に入っている。 停留所の近くが、Beghin Say.
- ここから、Boulevard Gustave Roch (ギュスターヴ・ロッシュ通り)をPont des 3 Continents (3大陸橋)まで歩き、そこから、Quai President Wilson (プレジデント・ウィルソン河岸)を、グレーのクレーンまで行けば、Hangar a Bananes (バナナの倉庫)のあるQuai des Antilles (アンティーユ河岸)に着く。が、ものすごく遠い。
- ボーリュー島の中は、漠然と広いので、歩くのは大変!市営のパーキングに貸し自転車があるので、それも1案。コマース広場に隣接したフェイドー島地区に、トゥーリストオフィスがあるので、まず、そこに行ってみるのがお勧め。最近は、市のあちこちにオレンジ色の貸し自転車があって、便利そうな気がするが、これは、1年間の会員にならないと借りられないらしい。
- Quai de la Fosse (フォッス河岸)と、Trentemoult (トロントムー) を繋ぐNavibus (ナヴィバス = 水上バス)に乗るなら、トラムウェイで、コマース広場から3つ先の、Gare Maritime (ギャール・マリティム) で降りれば、目の前が、乗船所になっている。

銀翼のカモメさんは、フラメンコ音楽情報サイト「アクースティカ」でもエッセイ連載中
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