ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第三十六話
Savon de Marseille
(マルセイユ石鹸) の泡立ちは、
地中海文明の手触り
**後編**

2010.2
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(中編から続く)
11世紀末に遠征し始めた十字軍によってヨーロッパにもたらされた≪石鹸≫、という文明の産物は、当時のヨーロッパ人にとって、神の摂理がなせる、高度な技術による、甚だしく贅沢な物産に見えたのでは、ないだろうか?そして、12世紀には、ヨーロッパの地中海沿岸地域で、石鹸の製造が始まった。スペイン(アリカンテ)とイタリア(ナポリ、ジェノヴァ、ベニス等)、やがて、フランスのマルセイユ。ここまできて、漸く、マルセイユ石鹸が、歴史上に登場するのである。

マルセイユ石鹸は、汚れを落とすパワーに優れている。植物性オイルとソーダ灰を混合し、それを鹸化することのみから出来上がる石鹸で、伝統的マルセイユ石鹸の技法では、72%のオリーヴ・オイル含有率を誇っている。これは、17世紀に、Louis XIV (ルイ14世) によって義務付けられた、マルセイユ石鹸の規格が、18世紀に入って、さらに明確な数字で定められたもので、基本的には、600gという、7cm角くらいの大きめの立方体で販売され、<植物油脂72%>の文字が、製造業者名とともに、刻印されている。現在では、オリーヴ・オイルのみでなく、ヤシ油、パーム核油も用いられており、オリーヴ・オイルだけのものは、淡いオリーヴ色、ピーナッツ油、ヤシ油、パーム核油も配合されているものは、多少クリーム色がかった白である。

さて、12世紀のマルセイユには、すでに石鹸の手工業的製造所があり、原料としては、最も近いプロヴァンスのオリーヴ・オイルと、塩を含んだ植物の灰 (Salicorne サリコルヌ = オカヒジキ、塩田の中の海水で、生息できる植物)から採った、重炭酸ソーダを使っていた。14世紀には、Crecas DAVIN (クレカス・ダヴァン) という人物が、マルセイユの石鹸製造業者として、公式に認可されている。その後、1593年には、Georges PRUNEMOYR (ジョルジュ・プリュヌモワール) なる人物が、はじめて、手工業よりも規模の大きい(どの程度、企業的なものかは不明)レベルの製造所を建て、石鹸の製造を推進したそうである。


17世紀にはいると、マルセイユの石鹸業界は、この地方の、増大し続ける石鹸の需要に応えることができず、イタリアのジェノヴァや、スペインのアリカンテからの輸入石鹸が、マルセイユ港に、次々と水揚げされていった。しかし、西仏戦争(1635 − 1659)によって、スペインからの輸入が中断され、マルセイユ石鹸業界は、西ヨーロッパ全域( = フランス王国北部、イギリス、オランダ、ドイツ)の需要にカバーするために、生産量を増加せざるを得なかった。こうして、1660年には、すでに、マルセイユの7つの工場で、それぞれ年間20,000トンにも上る石鹸を製造していたらしい。が、生産量拡大に伴って、品質が粗悪にならないよう、ルイ14世のもとで、<マルセイユ石鹸>の品質が確定されるようになる。純粋なオリーヴ・オイルで出来た、緑色の石鹸を熱望したルイ14世のために、1688年10月5日、辣腕 (らつわん) の財務総監 ( = 経済相 ) Jean-Baptiste COLBERT ( ジャン・バティスト・コルベール ) ** の立案による王令が発布された。それは :

- 原料に、純粋なオリーヴ・オイルを使用する。動物性油脂を、混入してはならない。
- 新しく採取されたオイルは、シーズン中に使用する。
- 鹸化作業にのためには、オカヒジキか、ソーダ、あるいは灰を用いる。
- 暑さで石鹸の品質が悪くなる6,7,8月は、操業停止。
- 販売にあたっての形状は、5kgの棒状か、20kgの塊。


という布告で、これが、マルセイユ石鹸の製造基準の徹底を、歴史的に義務付けたことになる。この規格が維持されることで、マルセイユ石鹸の品質は保証され、王家の石鹸としての評判も高まっていった。いわゆる、当時の最高級ブランド品 = 王家のブランドであり、今風に言えば、海外セレブ御用達、という感じだろうか。やがて、この石鹸の製法は、南仏一帯に普及し、サロン・ド・プロヴァンス (アルルから、エックス・アン・プロヴァンスを繋ぐ線の中心部で、純正オリーヴ・オイルを手に入れるのに最適の土地)、アルル、トゥーロンなどでも、生産されるようになっていく。

こうして1786年には、年間76,000トンの石鹸を生産する工場が、48にも上った。1789年に勃発したフランス革命によって、経済的混乱が発生したにも拘らず、石鹸業界は発展し続け、1813年には、62の工場を数えた。この年、マルセイユ出身のNicolas LEBLANC (ニコラ・ルブラン) が、オリーヴ・オイルの鹸化に必要な、合成ソーダの製造に成功してからは、この近代化学的なソーダが、海藻類 (オカヒジキなど) から抽出されていたソーダにとって代わった。この頃、オリーヴ・オイルの含有率は、72%という数値で定められた。その後、現在に至るまで、マルセイユ石鹸は、この製造法 = 昔ながらの窯炊き鹸化法(純植物性油脂を窯でゆっくり溶かし、精製された地中海の海水を用いて塩析し、潮風で長時間、自然乾燥させる方法)を遵守している。この方法は、現在でも、職人の手作業による部分が多く、4 − 5週間もかけて生産されるので、一度に出来る量も限られている。一方、20世紀後半に始まった、大量生産による石鹸は、約4時間で出来てしまうので、生産性に関しては、比べ物ならない。しかし、窯炊き鹸化法によってこそ、汚れを落とすパワーに優れながら、マイルドでキメの細かい泡立ちと、泡切れのいい、且つ、肌に低刺激の石鹸を作り出すことができ、それこそが、今も、マルセイユ石鹸に多くの支持者が存在し続ける、大きな理由である。

1820年頃から、新しい油脂の輸入が始まり、マルセイユの港にも、次々と陸揚げされるようになる。たとえば、アフリカや中東から入ってくる、ヤシ油、ピーナッツ油、ココナッツ油、ごま油,etc.である。特に、これらの油は、オリーヴ・オイルより、ずっと安価な石鹸の製造を可能にしてしまうため、イギリスやパリに、新しい石鹸業者が参入し、マルセイユの石鹸業界は、さらに厳しい競争にさらされるようになった。

20世紀に入ると、マルセイユには、90もの石鹸製造業者がひしめき、相変わらず発展し続ける業種だった。この頃になると、マルセイユ石鹸の油脂成分は、オリーヴ・オイルのみではなく、ヤシ油、パーム核油も使うようになっているが、油脂比率の72%、という数字は、守られていたらしい。

12世紀、石鹸の製造に着手した、ヨーロッパの地中海沿岸地域の都市。
(クリックで拡大します)




ナントから、西に40km位に位置する、大西洋沿岸地域。このあたりには、自然にできた、海水の入り込む沼地が広がり、塩田として利用されている。(第1話 ノワールムティエ島の塩田 参照)サリコルヌ (オカヒジキ)という植物はアシのように、こういう沼の海水の中に生えることができる。この写真で、多少、ローズ色っぽく映っているのが、どうもそれらしい。




西フランスの大西洋沿岸地域 (ロワール川河口地域)に自然に形成された、海水の流れ込む湿原の景色。 この写真のように、船が舫いであったりもする、かなり広域な沼地帯で、独特で不思議な雰囲気の漂う場所。 こういう湿原に、人工的に形を整えて塩田システムになった沼がある。もともと、粘土状の土地に海水が流れ込んで出来ているので、塩田として利用するに最適な環境だったのだろう。サリコルヌという植物は、このような景色の中に、根をおろしていく植物である。マルセイユ石鹸の製造を可能にしたサリコルヌは、おそらく、アルルの南 = マルセイユの東に位置する地中海沿 いに広がるカマルグ湿原地帯で採れたものだろうと考える。本文中のマリウス・ファーブルの工場がある、サロン・ド・プロヴァンスも、この地域だからである。(地中海沿岸の湿原にも、塩田があり、南フランス、カマルグ湿原の天然塩として、西フランスの塩とともに、有名である。)



マルセイユ石鹸に見られる、表と裏の刻印。ここにも、<72%>と、明記されている。





各種マルセイユ石鹸。東京でも、コスメの売り場などには、いろいろな石鹸が溢れるように陳列されている。個人的にはどれもこれも使ってみたいので、なるべく小さめの石鹸を買いたい。あまり長持ちすると、新しい石鹸を試してみる喜びが先送りになってしまうから…。



Marius FABREの石鹸。<創業1900年>と書いてある。素朴な感じの草花の絵が、家族的経営なのかな?と、想像させるような会社。


しかし、第一次世界大戦によって、海運による物資の輸送が難しくなると、石鹸業界もダメージを被り、生産量は、1913年の18万トンから、1918年には5万トンにまで、大きく落ち込んだ。その後、業界は、伝統的製造法を維持しながらも、機械化を進め、1938年には、12万トンにまで回復し、第二次大戦勃発当初は、マルセイユは、フランス全土の石鹸生産量の半分を占めていた。が、戦後の混乱の中で、品質の良くない製品に取って代られ、マルセイユの石鹸業者は、次々と閉鎖に追い込まれていく。現在では、全盛期のほんの一握りしか残っていないらしいが、私が、ナントのコペルニクス通りで買った、Marius FABRE (マリウス・ファーブル) という石鹸には、創業1900年と書いてある。ということは、大量生産時代の到来を前にしながら、多数の競争相手がひしめいていた時代に起業しながら、現在も残っている、数少ない老舗の一つだ、ということになる。サロン・ド・プロヴァンス(アルルから、エックス・アン・プロヴァンスを繋ぐ線の中心部で、純正オリーヴ・オイルを手に入れるのに最適の土地)に位置する彼は、群雄割拠で閉鎖に追い込まれていく工場を目の当たりにすると、私財を投じてその技術を買いとり、事業を継承して後世に伝えようと考えたそうである。現在でも、総勢30名ほどの、家族経営的な会社で、建物の一部は19世紀のもの。石鹸の歴史の真っただ中で、彼らは、年間総生産量1000トンの、王家のブランドを、今日も作り続けている。

(fevrier 2010)
(終編に続く)

十字軍の 遠征遥か バビロニア
砂漠の泡に ローリエ香る
カモメ詠


**財務総監 コルベール:太陽王ルイ14世のもとで活躍した、重商主義者。1661年、長年、ルイ14世の宰相を務めたマザランが死去すると、ルイ14世親政下の財務担当といなり、大蔵卿であったフーケの失脚によって権力を手中にする。1664年から20年間、フランス絶対王政下で、財務を担当し、フランス東インド会社、西インド会社・セネガル会社などを設立した。
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アクセス
ナントへのアクセス
Paris − Montparnasse 駅(パリーモンパルナス)から、TGV、Le Croisic(ル・クロワジック)方面行きで約2時間。Nantes(ナント)駅に到着する。駅から、Tramway (路面電車)1番線、Beaujoire(ボージョワール)方面行きに乗れば、3つめで、ナント中心街に着く。同じ線の、Francois MITTERAND(フランソワ・ミッテラン)行きに乗って、3-4停留所で、ロワール川沿いの、旧化学工業地帯に着く。古い大きな倉庫、古い造船所跡などで、その面影が窺える。

コート・ダ・ジュールへのアクセス
Parisから、国内線で、Nice−Cote d'Azur(ニース・コート・ダ・ジュール)空港へ。空港から、レンタカー、あるいは、ニース市内までリムジンバスに乗り、ニース駅から、国鉄を利用する。Menton(マントン)は、一番、イタリアに近い街。マントンの旧市街を抜けて、海沿いに走っていくと、 (イタリアまで 1000m)の標識が立っている。ニースからイタリア国境まで、100kmほど。ニースから西に100kmほどで、Cannes(カンヌ)まで。ニース = マントン間の、ほぼ中間地点にMonaco(モナコ)が位置している。モナコは、全長3kmほどの国だから、レンタカーを借りれば、このあたり一帯の海岸沿いを、風光を楽しみながら、行ったり来たりできやすい地方である。食事の秘訣は、イタリアに近づけば近づくほど、お値段もリーズナブルで、味が美味しくなる !! というポイント。マントンまで来たら、是非、ちょっと向こうのイタリアまで、パニーニや、ピザを食べに、足を伸ばそう!

銀翼のカモメさんは、フラメンコ音楽情報サイト「アクースティカ」でもエッセイ連載中
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