パリ市は20の区に分かれている。それはこのエッセーの第一回目でも書いたことなのだが、20の区には名前がない。単に、序数を用いて、1区はプルミエ、2区がドゥジエム、3区トロアジエム・・・以下ヴァンティエムの20区まで、一見、無味乾燥な命名ではある。ところが、実は、これらの数字は数字以上の意味を持っている。
だいぶ以前のことだが、「16区のマダム」という表現を日本の女性月刊誌に見たことがある。パリを知らない人(日本人の大部分がそうだと思うけれど)にしたら、全く、何のことだか想像もつかないだろうが、そこには「優雅」「上品」「良家」といった、特定の主婦像が浮かび上がる。パリの中でもこの地域に住むということは、ある種のステータスであり、パリ人にとっても、‘セージエム’(16番目)はやはり特別な響きをもっているようだ。そして、そういった地域はご多分にもれず、外国人にとっても安全かつ生活しやすい地域であり、日本人駐在員も数多く住んでいる。
そんな16区は、パリ市の西端に位置し、東にセーヌ川、西にブーローニュの森という、地理的にもとても贅沢な地域だ。アンヴァリッドを過ぎ、エッフェル塔のあたりから南へ流れを変えるセーヌ川は、16区の最南端を過ぎ、少し行ったところでまた北に向いて流れ始めるのだが、この蛇行する川の間の広大な地域が、オスマン男爵の時代(1859)にパリ市に組み込まれた、いわばパリの‘山の手’である。革命以降台頭してきた中産階級がこぞって住居を作った‘新興住宅地’は、20世紀に入り高級住宅地となった。
16区の東の部分、セーヌ川沿いの一帯は、その昔はパッシー村と呼ばれ、のどかな田園地帯だった。その名残は21世紀になった今でも、バルザック記念館(レイヌアール通り47番地)のあたりへ行くとよく分る。通りにはこれといった建物もなく、鉄柵があるだけだ。鉄柵の中はお世辞にも手入れの行き届いたとは言えない庭になっている。記念館はどこにあるのだろう?とよーく目をこらすと、通りからはぐっと沈んだところに、木々に隠れて、小さな家の屋根がちらちら見える。バルザックファンには垂涎の資料館なのかもしれないが、訪れる人も少なく、通りを行き交う人々も知らん振りして通り過ぎるだけである。
鉄柵の中に入り、家の周りに広がるうっそうとした庭に足を踏み入れると、そこではご近所のお年寄りと思われる女性たちがベンチに座って、静かにおしゃべりをしていたりする。急斜面の庭からははるか向こうに15区の家並みが見える。足元のほうに目をやれば、石垣で囲まれたような本当に小さな、狭い、まさに田舎道。1840年から7年間、晩年のバルザックはここを隠れ家のようにして住んでいたらしいが、借金取りを逃れて、裏口からこそこそ逃げ出すバルザックの後姿が眼に浮かぶようだ。
レイヌアール通りを北のほうに進むと、トロカデロ広場に出る。「エッフェル塔が一番美しく見える場所」ということで、広場にはいつも観光バスがとまり、大勢の観光客でにぎわっている。確かにシャイヨ宮の真ん中に出てみれば、下には立派な噴水と手入れのされた庭、そしてその向こうにセーヌ川、その向こうにそそり立つエッフェル塔と、最高のロケーションであることは間違いない。
結婚式の写真を戸外で撮影するのが以前から流行っているが、最近の人気スポットの一つに、このシャイヨ宮下の噴水と芝生が選ばれている。意地悪なパリっ子からは、「そんなところで写真を撮るのは、おのぼりさんって証拠よ」という声も聞こえるが、6月の週末になると何組もの新婚カップルを見かけたりする。
ところで、私の一番のお気に入りは、また別のところにある。シャイヨの丘の南の端っこにコスタリカという小さな広場があり、そこからはレイヌアール通りなどが放射状に出ているのだが、セーヌに対して垂直に小さな道がある。その道はなだらかに下っていて、50メートルほどで行き止まる。目の前にあるのは、メトロのパッシー駅だ。
階段の下にホームが2つあるだけの、むき出しの駅舎。乗降客もまばらで、のどかな田舎の無人駅にも似た風情だ。そして、時折、思い出したように行き来するメトロ。
ビル・アーケム橋の上を走る、地下にもぐらない地下鉄を真正面に据えて、セーヌの向こうに7区15区を見下ろす時、私は、パッシー村が羨望の高級住宅地であることを、しみじみと実感する。 |