昔の映画のワンシーンか何かで、霞隠れの薄暗い街かどで、灯りをつけて(「消して」だったかも)歩く老人の姿を見たことがあるような気がする。
くたびれた上着を着た、少し猫背の老人が、ガラスの覆いの小窓を開けて、長い棒で、ゆっくりと灯をともす。それは、映画ではなく、単に私の頭の中のイメージかもしれないが・・・。
“私の街灯”は、決して蛍光灯色ではない。覆いの形も、モダンな無駄のない流線形、ではない。ガラスの箱に入れられて、「ランタン」とカタカナで呼びたくなるようなもの。そう、パリの街路を照らすのは、この、本当に美しい灯りたちであり、それはまた、ともされていない昼間であっても、一つのオブジェとして、十分に美しい。
ビル・アケム橋にも、“私の街灯”がぶらさがる。
街灯の下には、街路があり、それは、狭いけれど気分のよい散歩道の趣、自転車と歩行者が仲よく並んで通る。私たちの頭の上には、武骨な、だけど結構“こじゃれた”(と私には思える)鉄柱に支えられた鉄橋があって、地下鉄が時々行き来するのだけれど、「ガード下」に決してならないのが、この橋の素晴らしいところだ。そして、無粋な自動車は、この街路の両側を、おとなしく通る。いや、百年前なら、それもまた、小粋な乗り物だったはず・・・。
15区のビル・アケム側から橋に上がれば、美しい16区の家並みが見えるし、16区のパッシー側の橋に立てば、エッフェル塔が見える。そして、もちろん、下にはセーヌ。
この橋に立ち、川を前にした時に思い出したのは、祖父のことだ。
原爆で亡くなった祖父のことを私は全く知らない。知っているのは、飾られていた写真の中の顔と、父が語る祖父の思い出と、そして、太平洋戦争中、たまたま疎開していて焼けずにすんだ五十冊余りの祖父の著作の背表紙だけである。
祖父の著作は、いつも父の書棚の、ガラスケースの中にきちんと並んでいた。中でも『少年少女世界地理文庫』という十何冊かのシリーズの背表紙のことをよく覚えている。幼い私にも読みとれるタイトルだったし、そのデザインにも惹かれたのかもしれない。祖父は、地理学を専門とする教育者だった。
ビル・アケム橋を渡りながら、私は背表紙の、少し古びた活字を思い出していた。その時、この本に再会したい、という思いが突然のように私を襲った。昭和初期の、旧仮名で書かれたこれらの本をひもといたことはなかったから、正確には「再会」じゃなくて、「初対面」だ。「読んでみたい」と無性に思った。『少年少女世界地理文庫』には、確かフランスの一冊もあったはず、フランスのことを祖父はどう書いただろうか……。
一昨年の12月、私は、90歳の父とともに、広島を訪れた。父の書棚からは姿を消し、広島大学教育学部の図書室の「西亀文庫」となった祖父の著作と再会を果たすための、生まれて初めての父との二人旅だった。
祖父の書物を何十年か振りに手に取り、そしてとても新鮮な気持ちで、フランス編のページを繰った。
………パリーの町の中程、セーヌ河が一寸二又にわかれて一つの川中島が出來てゐます。これをシテの中島と云って、恰度大阪の中之島の様に街の一つの中心となつてゐます。………パリーのシテも古くから政治なり宗教なりの中心地でありました。………廣い街路がまつ直に通り、並木は美しい緑の影を………舊式な家が處々に残ってゐて昔の有様をしのばせてゐます。………
………凱旋門の中央の土間には「無名兵士の墓」があります。………その前には『消えずの燈明』と『絶えざる花』とが手向けてあります。先年わが天皇陛下がまだ皇太子殿下としてパリーに………花環をお手向けになつた様に記憶して居ます。
私の知るパリと寸分違わぬ“パリー”が、昭和7年発行の1冊六十銭のこの本の中に広がっていた。
「当たり前じゃないの。この本が書かれたのは1930年頃なのだから。今のパリとおんなじなんだから」と、頭では分かっていたけれど、なんだかとても不思議だった。そしてとっても、うれしかった。
パリよりも、また東京よりもはるかに暖かい瀬戸内では、なごりの紅葉が美しく、父と私は、翌日、世界遺産である原爆ドームのある公園を散策し、記念碑に手を合わせた。
広島もまた、川の流れる街であった。