ナポレオン三世。第二帝政時代の皇帝。私のエッセィの中でもたびたび登場するこの人物は、かの有名なナポレオン(つまり一世)の甥っ子で、同時に義理の孫でもあるが――ナポレオンの最初の妻であったジョゼフィーヌの連れ子オルタンスがナポレオンの弟と結婚し、生まれた――、歴史的に、名君、立派な指導者であったかは別として、現在のパリの街を作り上げた時代の統治者として、大いに評価されるべき男だと思う。
彼の治世下に整備されたパリの地域をあげていったらいとまがないが、そのうちの一つ、モンソー公園周辺もまた、当時の面影をそのまま残す美しい地域である。
ナポレオンの凱旋門(いわゆる、パリで一番有名な凱旋門のこと)のあるシャルル・ド・ゴール広場から放射状に延びる12本の道のひとつに、オッシュと名付けられた通りがある。シャンゼリゼの2本北側にあるこの街路は、他の11本と同じように少し太くて立派だが、決して長くはない。7-800メートルも歩けば終わってしまう街路だ。
オッシュが行きどまりになるところ、これは、正確に言えば、オッシュ通りの1番地だから、通りの終わりではなく、「始まるところ」という表現をすべきなのかもしれないけれど、そこには、黒い鉄柵が見える。
この鉄柵は、リュクサンブールなどと同様、パリの公園の囲いにすぎない。でも、あまりに立派で美しく、何も知らなければ、近づき難いような威厳さえ持ち合わせた柵である。公園の囲いと言えば、金網のフェンスくらいしか思い浮かばない東京人にとっては、西欧的なものの権化のような柵である。
先端を金で塗った黒い鉄柵は、優雅な門を形成している。そして、大きな門の両側には、パリが誇るこれもまた瀟洒な建物が並び、まるで私有地のような雰囲気だから、よけい中に入るのがためらわれるが、心配はいらない。正真正銘、ここはパリ市の、モンソー公園の、西南の出入り口だ。
それが証拠に、鉄柵の扉の上のほうに、あの、「たゆたえど沈まず」の、船を描いたパリ市の紋章がはめられている。もっとも、その紋章は錆ついてしまったのかまっ黒けで、実際にはよく見えないけれど、なんとなく特別の印のようにも思えるその黒い楕円を縁取る飾り模様もまた「権化」。私はつくづく、東京都の銀杏は簡単! と思う。ガードレールなどに施された、あの逆三角形のようなラインの単純なことを、ほんの少し残念に思ったりもする。
モンソー公園の魅力は、何と言っても洗練された小ぶりの空間にある。石造りの家並みの続く都会のど真ん中にあって、ふと土の匂いを思い出させてくれるほどよい広さ。都会の生活にもすっとなじんでしまうところが、ここの特徴と言えるだろうか。オッシュ通りの入口から入り、まっすぐ400メートルも歩けば、東側の出入口に着いてしまう。南北にも道があるが、こちらは、もっと短くて、せいぜいが200メートル。だから、誰もがこの十文字を抜け道のように歩いてしまう。学校の帰りも、買物の途中でも、職場の昼休みでも・・・。
この辺りは、もともとが、オルレアン公ルイ・フィリップ(当時はシャルトル公で、革命後フィリップ・エガリテと呼ばれた;1747-1793)が結婚の記念に購入した土地だった。最初は、単に人々(一般庶民も含まれていたかどうかは疑問だけど)が集まるためのにぎやかな楽しげな場所として、世界中のいろいろな建造物を配置した、若干奇をてらった感のある空間だったようだが、そのうちにスコットランド出身の庭園設計家が、ごてごてした趣味のものを取り払い、植物をたくさん植えるなどして、英国式に変えてしまった。それが今もそのまま踏襲されているらしい。
その後、1785年に入市税が導入された時、アッティカ風の丸くて可愛い徴税事務所が作られたが、これは、今でも、公園北側の出入口の目印。
革命の後、フィリップ・エガリテもギロチン台の露と消え、土地は一時期、国に没収されたこともあったが、王政復古とともに再びオルレアン家が所有し、それを、ナポレオン三世時代にパリ市が購入、そして土地の一部を、名実ともに、「公園」として作り上げてお目見えしたのが、現在のモンソー公園の姿である。
ブルボン朝の代表、ルイ十四世、‘太陽王’のヴェルサイユに見られるような、厳しく秩序が保たれたフランス正統派の幾何学的な庭園デザインがいいと感じるか(私は、以前にも書いたけれど、この「秩序」もそれなりに好き)、それとも、英国式「自然のまま」を重視する公園設計がいいと感じるか、これはまさに個人の趣味なのだけど、日常の普通の空間としては、「適度に放ってある」のはうってつけのように感じる。蛇足ながら、「相当放ってある」は、やはり、疲れる!
(次号に続く)