ジャックマール・アンドレ美術館に、私は時々足を運ぶ。この小さな美術館にはボッチチェリやらマンテーニャやらドナテロやら驚くべき宝物がいっぱいで、私の好きなウッチェロの小さな作品もあるから。日本から友達が来たら、無理やりにでも連れてくる。
美術館とはいえ、もともと個人の館なのだから、空間の取り方が、肌になじむ。そして、この館の持ち主は、当時のフランスの装飾美術の大家、エドワール・アンドレ。もちろん、19世紀のブルジョアだから、庶民の家とは程遠いが、完璧なるフランスの装飾文化――彼の説によれば、それはやはり18世紀フランス――をあますところなく伝えようとした館主のもくろみは成功したのではないだろうか。とにかく美しい。しかし、決して派手ではない。
先日も、友人のH子が、ちょっとややこしいことを抱えて、眉間にしわを寄せていたから、お茶に誘った。もともとはアンドレ家の食堂だったという、美術館のカフェだ。
「へぇ、ここも美術館なんだ」と、H子は言いながら、「パリにいても芸術に触れることが少なくて」とつぶやいた。
しめしめ。だから、連れて来たのよ。
美術館をぐるりとして、カフェでお茶を飲んでいるうちに、なんとなく彼女の表情がゆるんだような気がする。
モンソー公園の南側、現在は、ブルバール・オスマン(とうとう、知事は、道の名前になりました!)との間にはさまれた地域もまた、第二帝政時代に公園の造成とともに分譲に出された土地だ。だから、今でもオテル・パルティキュリエールと呼ばれるいわゆる一軒家――パリでは、住居といえば、ほとんどが集合住宅である――がいくつもある。その中でもひときわ大きい土地を購入し、館を建てたのが南西フランスの銀行家でナポレオンの時代に絶頂を極めた大富豪アンドレ家の家督エドワール。
そして館の設計は、オペラ座建設のコンペでガルニエに敗れ、二位に甘んじたパランであり、その屈辱(?)がばねになったのか、彼は素晴らしい建築を考えた。工事は6年もかかった。
オスマン通りから見えるのは、基礎の部分と、入口部分だけだから美術館の看板がなければ、誰も気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。ところが、基礎部分にくりぬかれた入口から中に入り、そこを抜け、なだらかにカーブする坂道を上って中庭に出ると、ベルサイユのプティトリアノンにインスピレーションを受けたという建物の美しい正面玄関が現れる。
審美眼を持ち合わせた稀代のカップル、エドワール・アンドレとネリー・ジャックマールが結婚したのは1881年、この館が建てられてから数年後のことだった。
軍人としてのキャリアを持ち、その後は政治の中枢にもいたエドワールが、そういった「世間」に嫌気をさし、装飾美術の世界に入って行ったのは、2歳の時に実母を亡くし、こてこてのナポレオン崇拝者の世界で成長した少年時代や、安定しない社会への失望のせいかもしれない。しかし、それだけでなく、肖像画家ネリーとの出会いが、彼の美術史家としての人生をさらに豊かにしたのも事実である。何をするにも、優秀な助手がいて、共通の価値観を持つ仲間がいるというのは大切なことだ。
結婚生活自体は20世紀を待たずにエドワールが亡くなったため、わずか十数年間しか続かなかったが、二人の美術に向ける情熱と共同作業は、その短い時間をも超越する大きくて深いものとなった。二人してヴェニスに、フィレンツェにイタリアルネッサンスを求め、そして、ネリーは一人残された後もさらに精力的に世界を巡る。
とにかく二人は、美術館を作ることしか考えていなかったのだ。自分たちが所有する莫大な富を、社会に還元することだけが目的だった――どこぞの誰かに聞かせたい!――志の高い夫婦なのである。そしてネリーも1912年に亡くなり、二人の遺言のように、1913年、フランス学士院はこの館を美術館として公開した。
そして、100年後の私たちも、まさに、その恩恵に浴することができる。100年前と同じままの配置の美術品を。パリだからこそ。
(次号に続く)