朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
「フランス語を守る」
2005.07エッセイ・リストbacknext
 6月のはじめに日本の新聞各紙は石原東京都知事の「フランス語を誹謗する暴言」をめぐり、仏語学校の校長らが近く損害賠償などを求めて提訴する、と伝えた。フランスともフランス語とも特別に縁のふかいわたしたちにとって、これは他人事ではない。今回はいつもの「仏英戦争」の話を一時休戦にして、都知事発言を話題にしようと思う。
 さて、これはフランスの新聞「ル・モンド」の東京特派員の目にもとまり、一面(同8日付け)に取り上げられた。問題発言は何だったか、Philippe Pons記者の文章ではこうなっている。文中のelle はla langue françaiseを指す。 
“Inapte au calcul, il est normal qu'elle soit disqualifiée comme langue internationale ”, aurait-il déclaré. 「彼(=都知事)はつぎのように公言したらしい。―――フランス語は数の勘定にむかないから、国際語として失格とされても当然だ」 正面きってこうまで言われたのでは(記者は断定を避けて、ことさらdéclarer「公言する」という動詞を条件法過去にしている)、私もフランス語教師の端くれとして公憤をおぼえる。
 しかし、挑発をうけたフランス人の記者は冷静で、同知事の過去の発言に目をむけることを忘れない。知事がses formules provocatrices et un populisme xénophobe souvent tourné contre les Chinois「多くは中国人に向けられた挑戦的な常套句や外人排斥的な大衆迎合」でつとに有名なことや、l'inutilité des femmes aprės la ménopause「更年期を過ぎた女性の無用性」を説くためにわざわざ le terme péjoratif de « baba »(la « vioque »)「<ばばあ>(老女)を指す蔑称」を用いたため、女性たちの告訴をうけたことをさりげなく、抜かりなく読者に報告している。ただ、そうはいうものの、彼も知事発言にはさすがに反撥を禁じえず、Propos aussi outranciers qu'injustifiés「過激でもあれば、不当でもある発言」と切って捨てた。ここのaussi <A> que <B> という構文であるが、念のために補足すると、形容詞AがBと同程度に名詞の修飾語としてふさわしいことを意味する。ここでは原文の語順に即して訳した。というのも、原文ではこのあとに「フランス派の数学は日本で認められ、第二次大戦後、理系の日本人学生たちの間に数学をひろめるのにおおきく貢献したのだから」とあって、石原発言が不当で根拠を欠くことが記されているからである。
 フランス人だけではない。「知事の認識の粗雑さには、ただただあきれるばかりだ」として朝日新聞に投書なさった倉田保雄氏も同じ立場のようだ。氏は暁星小学校でフランス人からフランス語を仕込まれたが八十歳をこえた今も読み書き・会話に不自由せず、「数も勘定できる」という身の上話のあと、パスカルやモンジュのような高名な数学者がフランス人であることを指摘しておられる。
  こうした反論で議論は決着したといってよいのだが、腹立たしくも、悲しいことに、相手が悪い。彼の主張の根拠は、察するところ、そんな高尚なところにはありそうもない。思い切っていってしまえば、たとえば80がquatre-vingts、 90がquatre-vingt-dix と表わされ、十進法にしたがっていないことに戸惑って、彼自身が仏語学習の入り口で挫折したというにすぎない、のではないか。そうだとすれば、漢字の難解さを訴えて、「同じ<鳥>という字なのに、<大鳥神社>と<鳥取県>とではなぜ発音がちがうのでしょうか」と食い下がってきた帰国子女の場合と大差はない。この種の「難しさ」を理由に、日本語は国際語として失格だといわれたら、都知事は何と答えるのだろう。 
 深刻なのは、それほど貧寒たる教養の持主が絶大な権力をふるい、東京都の行政改革の一環と称して首都大学(もとの都立大学)の文学部仏文科をいわば廃止に追いこんだということである。
 粗雑な頭脳を相手にしようとすると、いきおい、こちらも粗雑な語り口になってしまう。そのついでに、先日の「フランス映画祭・横浜2005」をのぞいてみて、抱え込んだ憤懣を爆発させて、この項の締めくくりにしよう。気がかりは、出品作の邦訳名が示しているのだが、観衆のフランス理解を過少評価し、人気を取ろうとして、いかにも低い水準にあわせようとしている点にある。具体例をあげれば、Arsėne Lupin が『ルパン』、 La Petite Jérusalemが『リトル・エルサレム』 は致しかたないにしても、Mon Ange が『モン・アンジュ』になるのはどうしてなのか。その意味では昨年公開されたBon voyage が『ボン・ヴォヤージュ』だったのも気にかかるところだ。仏語を選択する学生の数が1999年から2003年の5年間で10パーセントも減少したことはポンス記者も報じているとおりだが、そのように退潮傾向にあるからといって(石原知事がその傾向に便乗しようとしていることは疑いない)、日本人の間で「フランス語を守る」ためには、卑屈とも思える妥協が必要なのだろうか。どんなに日本人学生に易しそうに見せかけようと、80が quatre-vingts であることに変わりはない。
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