Le Petit Prince(前回、うっかり和訳名を限定できないことが判明したので)の訳文の比較に入ろう。てはじめに、簡単に見つかる違いをとりあげ、どうして違いが生じたかを考えることにしたい。そこに、翻訳一般につながる問題がひそんでいるように思うからだ。なお和訳はほかにも存在するが、この講座の性質上むやみに手を広げるのはやめて、対象は前回と同じく、内藤濯訳(岩波書店、オリジナル版)、山崎庸一郎訳(みすず書房)、倉橋由美子訳(宝島社)、池澤夏樹訳(集英社)に限定し、順にA,B,C,Dと呼ぶことにする。
第IV章、数字を偏愛する大人をさんざんからかったあとのくだりである。
Mais, bien sûr, nous qui comprenons la vie, nous nous moquons bien des numéros !
英訳も今や2種類あるが、ここでは古い方のKatherine Woods訳を引く。
But certainly, for us who understand life, figures are a matter of indifference.
さて和訳はどうなるか、とりあえず列挙する。特に太字部に注目してほしい。
A) だけれど、ぼくたちには、ものそのもの、ことそのことが、たいせつですから、もちろん、番号なんか、どうでもいいのです。
B) でも、もちろん、人生というものがわかっているわたしたちは、番号なんかまったく軽蔑していますよね!
C) しかし、人生がわかる人間なら数字のことなんかどうでもよかっただろう。
D) だけど、ぼくたちみたいに生きるということの意味がわかっている者には、数字なんてどうでもいい。
nous qui...という関係代名詞の処理に差があるが、それはさておき、際立った違いとして、Aが「人生がわかる」という直訳にあきたらず、なんとか子ども向けに噛み砕こうと苦心している様子が見てとれるだろう。前回の検討で、Aは読者対象の年齢がひくいことを念頭において翻訳にのぞんだことがはっきりしていたが、それがここで歴然と訳文を左右したわけである。かりに成人相手の翻訳であっても説明的な訳が必要になる場合は考えられるが、ここでのAは成功しているとはいいがたい。私の考えではB,Cで不足はなく、敷衍するにしてもせいぜいDまでだろう。 同じ傾向を指摘できるのは、X章、第一の訪問先で王さまに出会う場面。彼がun monarque absoluであって、臣下の désobéissanceが我慢ならぬ、という箇所である。英訳はan absolute monarch、disobedienceで何の問題もないが、和訳はそうはいかない。
B) 絶対君主、不服従
C) 絶対的な君主、不服従
D) 絶対君主、命令が無視されるのは
B~Dが概ね直訳ですませているのに対し、ここでもAは日本の子どもにアピールする訳文にこだわって、 「どこまでもワンマンの王さま、 命令にそむくような人」としている。
これはこれで面白い訳しかたといえるが、興味深いのは「ワンマン」という訳語ににじむ時代相だろう。Aの背景はむろん今の首相であるはずはなく、戦後日本の政界に君臨した吉田茂首相であったにちがいない。彼こそは良くも悪くも「ワンマン」という日本語の産みの親になった特異人物だった。
時代の変化、日本語の変遷を映すという意味では、第三の惑星の住人、un buveur も目をひく。英訳でもa tippler, a drunkardと変化が見えるが、和訳も同様である。
A) 呑み助 B) 酒呑み C) 大酒飲み D) 酒飲み
B、D の漢字の違いにもすでに訳者の年代が透けて見えるが、目立つのはAだ。この語を見て、意味は理解できるにしても、自分から口にする若者はもういないのではないか。
似たような現象はSaint-Exupéryが描いた「王子さま」の挿絵につきものの cache-nez についても指摘できる。
A) 襟巻き B) マフラー C) スカーフ D) マフラー
「似たような」と妙な言いかたをしたのは、見てのとおり、「襟巻き」が「マフラー」に変わったところまでは似ているのだが、そこに「スカーフ」が混じってきた点がちがっているからである。はてな、どちらが正しいのだろう。そもそも「マフラー」と「スカーフ」の違いは何だろう?
それを論じる前に、Petit Larousse (2004年版)を見ると、Longue écharpe de laine protégeant du froid le cou et le bas du visage「長いウールのショールで、首と顔の下半分を寒さから守るもの」 とある。とすれば、「マフラー」と訳すべきだろうと思うのだが、念のために標準的な仏英辞典Oxford Hachette French Dictionary でcache-nezの項を調べてみよう。すると、scarf, muffler とあるではないか。しかも厄介なことに、英訳では前出の旧訳はmufflerとなっていたのに、Richard Howardの新訳はscarfになっている! この話のつづきは次回にゆずる。 |