新訳のいろいろ |
前回の約束でSaint-ExupéryのLe Petit Princeをとりあげることにしたのはいいが、タイトルの翻訳でさっそく問題にぶちあたった。この本の場合、原作者がアメリカにいて執筆したが、フランス本国がドイツに占領されていたため、英訳が原本より先に出たという曰くつきの作品である。ただ、その時の訳でも現行の新訳でもともにThe Little Princeとなっていて、仏英両語のあいだでは何の問題もない。ところが、邦訳となるとそうはいかない。最初に出たのはもちろん内藤濯訳だが、戦前バーネット女史のLittle Lord Fauntleroy(仏訳ではlittleがpetitに変るだけ)を若松賎子が『小公子』としたのとちがって、『星の王子さま』という苦心の邦題を案出した。ここに問題の元がある。本文もさることながら、表題にしてもこれが名訳で、戦後半世紀にわたって読者に親しまれてきたから、原題とのあいだの距離など誰も気にかけなくなってしまっていた。ところが、今度新訳への道が開け、複数の訳本が店頭に並ぶことになって、あらためて原題から出直すことが必要になったのである。
倉橋由美子訳(宝島社、以下Aと呼ぶ)は『新訳 星の王子さま』と「新訳」を添えることで、タイトルそのものは内藤訳を踏襲した。 池澤夏樹訳(集英社文庫、同じくB)もこの例にならったが、訳者名のあとにさりげなく「新訳」とした上、巻末に「タイトルについての付記」を載せた。「この邦題はすぐれている。実際の話、これ以上の題は考えられない。」と釈明したのである。
これに対し、山崎庸一郎訳(みすず書房、C)はあえて直訳的な『小さな王子さま』とし、その理由をつぎのように説明した。「ある星に住む王子さまと受け取られがちな従来の邦訳題名は、作品の物語性のみを前面に押し出し、その内面性を見落とさせる惧れなしとしないと考えたからである。」ここでいう「内面性」の意味は、訳注で「飛行士のうちでおこなわれた、ひとりの大人とかつての小さな子どもとの内的対話」と敷衍されている。
この見方はAの考え方につながる。彼女はタイトルについては妥協したものの、「本屋の児童書のコーナーにおかれて子供たちの圧倒的な人気を博する性質の本である」という岩波書店流の受容のし方にはかねがね反撥を感じていたらしい。真っ向から反対して、「子供が書いたものでもなく、子供のためのものでもなく、四十歳を過ぎた男が書いた、大人のための小説」だといいきる。そして、ヨーロッパ小説の定石にしたがい、大人である「私」と「反大人の自分」との対話になっているとする。
それにしても、「星の」はなぜついたのか。内藤訳に追随したBは、『小さな王子さま』では「元のpetitに込められた親愛の感じはそのままでは伝わらない。タイトルなのだからもう1つ、主人公を特定する形容が欲しい。」とし、「星の」は「桐壺の更衣」や「清水の次郎長」のように「その人が住むところの名を冠する」日本古来の伝統にしたがったものであり、だからこそ長命をたもっているのだと説きすすむ。
操縦席のサン・テクジュペリ |
これは尤もらしい意見であり、これで日本での成功の秘密が一面において解けたように思える。しかし、Cはわが国におけるサン・テクジュペリ研究の第一人者らしく、「星の」の付加にさまざまな疑問をつきつけて反論する。要するに、王子の地球への落ちて来かたにも消えかたにも疑問が多いこと、物語の最後に近づくほど神秘性が強まることから考えて、「王子さまの出現はあらゆることを可能にしてくれる砂漠での彼の幻想の産物ではないか」と結論する。そうだとすれば、「星の」をくわえて「王子さまを外側から場所的に固定する」のは原作者の意図にそむく、少なくともゆがめる危険があり、翻訳者としてはそれを避けるべきだ、というのである。
これまでになく難しい話になったようだ。この辺でBがpetitを「小さな」と訳したのでは「親愛の感じ」が出ないというのに関連して、同じようなタイトルをもつ先行作品の邦訳名を示して終わる。いまは「プチ」というカタカナ日本語になって、「プチトマト」(tomateは女性名詞)とか「プチホテル」(後続hôtelとは、リエゾンの必要がある)とかいう形で愛用(乱用)されている。どちらの場合も、「小さな」ではピッタリこないという意識が裏で働いたからこそ、定着したのだろう。要するに、翻訳にあたりpetitだからといって、バカにできないことを理解してほしいものである。
Le Petit Poucet 「親指小僧」 英訳ではHop o'my Thumb
Le Petit Chaperon rouge 「赤頭巾ちゃん」 Little Red Riding Hood
La Petite Sirène 「人魚姫」 Little Mermaid
次回こそ、Le Petit Princeの本体にすすむことにしたい。 |