「異邦人たちのパリ」展のチラシ(カタログ表紙) |
防衛庁跡地を再開発したTokyo Midtownが誕生した。midtownに対応するフランス語はcentre-villeだから、いわば「都心の中の都心」という野心満々の命名である。その中でも目玉が、東京一高いという触れ込みのMidtown Tower、Tour Centre-ville。たまたま開館当日に通りかかったので、中に足をふみいれたが、物見高い群衆の数もさることながら、横文字の氾濫に驚いた。羊羹店やら豆腐屋やら懐かしいノレンが出ていないわけではないが、主流は服飾関連や飲食・嗜好品などを扱う欧米の有名店が目白押しで、外国企業にいわば都心を占領されたようなものなのだ。
その日は国立新美術館National Art Center, Tokyo(カタログに載っているから、正式の名称なのだろう)の展覧会「異邦人たちのパリ」を見た帰りだったから、「異邦人たちのビル」とでも洒落のめしたい気分だった。ただ誤解のないようにつけ加えるが、わたしは偏狭な国粋主義者ではない。では、この駄洒落の意味するところは何か。
話はそもそも展覧会の趣旨をわたしが誤解していたことに遡る。わたしは、主催者の朝日新聞やNHKの広告から早合点し、パリで大成した藤田嗣治や荻須高徳たち日本人画家の里帰りという風に理解して見に行ったのだが、大間違い。原題はParis du monde entier, Artistes étrangers à Paris 1900-2005「世界中のパリ、1900年から2005年までのパリの外国人アーチストたち」だった。つまり、パリを支えているのは世界全体であり、20世紀から現在にいたるまでスペインのPicasso、ロシアのChagall、ルーマニアのBrancusi、スイスのGiacomettiなど多様な外国人が活躍し、世界に冠たるパリを形成してきたと、むしろ誇らしげに展示しているのがこの展覧会だったのである。アメリカ流のglobalizationに対抗するmondialisationの意図が露骨なこのフランス流の態度に学んで、ミッドタウン・ビルは日本流の世界化を形にしている、といえないものか。
飛躍するが、明治時代の日本が「脱亜入欧」(これを福沢諭吉の主張とするのは俗説で、彼の真意ではないらしい)をスローガンにしていたことを想起しよう。このコンセプトをOccident/Orientの対比から「西欧化」という単語の類推で造語すれば、<désorientalisation et occidentalisation>ということになろうか。問題の高層ビルこそ、脱アジア志向の到達点なのかもしれない。
ここで話はまた飛躍する。3月8日の世界婦人デーにぶつけた記事かと察するが、同月9日付けのLe Monde紙にDémographie : Les filles sacrifiées d’Asie「人口統計、アジアでは娘が犠牲になる」というセンセーショナルな記事が載った。そこには二つの図が例証として掲げられている。
人口性比の大陸別比較(Le Monde紙による) |
第一は男女の人口比が6大陸間で異なることを示したもの。女性100に対する男性の数(これを人口性比という)が北米96.9、南米97.5、アフリカ99.8、オセアニア99.5、ヨーロッパ92.7であるのに対し、アジアは103.9とあり、これに基づき世界の大陸地図が100~104は青紫色、96~100は赤紫色、92~96はパープル色に塗り分けられている。つまり、アジア大陸の青紫色が強調され、そこにつぎのようなキャプションが重ねられている。
Le continent asiatique est le seul qui compte plus d’hommes que de femmes.
「アジア大陸だけは女より男の数が多い」
第二は乳幼児(0~4歳)の死亡率を同じく6大陸間で比較したもの。1000人当たりの死者の数を女児、男児の順に記すと、北米は8/8。南米は31/39。アフリカは153/165。オセアニアは40/39。ヨーロッパは10/13。これに対しアジアは76/73(特に中国は47/35)。この数値に従い、女児死亡率が超高死亡率の大陸は赤紫色、高死亡率の大陸はパープル色、同率の大陸は灰色、低死亡率の大陸は薄紫色、超低死亡率の大陸は青紫色に塗り分けられた世界地図が掲げられているのだが、アジアはパープル色、わけても中国の赤紫色がひときわ目立つ。これにつぎのようなキャプションが追い討ちをかける。
En Asie, il meurt plus de petites filles que de petits garçons.
「アジアでは、男児よりも多くの女児が死ぬ」
さて、当然なことではあるが、両方の地図ともわが国はアジア大陸の一部として扱われている。これには驚いた。わたしは、地理的にはアジアに所属するにしても、すくなくとも人口問題に関するかぎり日本は欧米並みだろうと決めこんでいたからだ。ところが、総務省統計局による人口推計(平成16年10月1日現在)を調べてみて、もう一度驚いた。というのも、人口性比は全体としてみれば95.4で、平均余命が男性を大きく上回るというわたしたちの常識的理解を裏づけているのだが、細部を見ていくと、まさしくLe Mondeの指摘どおり、アジア並みであることが判明したからである。詳しく述べるスペースがないので、要点だけを挙げると、まず4歳までははっきり105を超えており、女児の死亡率の方が高いといわれても仕方がない。そればかりか、人口性比が100を下回る、つまり女性数が男性数を上回るのはようやく50歳の年代層を越えてからのことにすぎない。その意味では、男の方が多いアジア型の構成であることを認めざるをえない。要するに、「脱亜入欧」どころではないのである。
形はともかく、心はどうなのか。
Le Monde紙は「アジアにおいて女児が男児の犠牲になるのはなぜか」という問いの答として、中国においては人口性比の歪みを正すよりも、一人っ子政策politique de l’enfant uniqueの強制が優先されたことを挙げる。その際、この国ではいまだに家父長制patriarcatと父系制patrilinéaritéという儒教の伝統が根強く、誰もが男子による家系の存続を期待するばかりでなく、老後の安定を息子に委ねたいと願うというのである。空恐ろしいのはその先で、超音波造影法échographieがひろく導入され、妊娠初期に胎児の性別が母親に知らされる結果、女児とわかったとたんに中絶の処置がなされるという。
Elles(=les femmes) ne sont pas nées ou bien sont mortes en bas âges, victimes d’avortement sélectifs, d’infanticides ou du manque de soins.
「女性は生まれてこないか、もしくは選別的妊娠中絶または子殺しまたは介護不足の犠牲になり、幼くして死んでしまう」
要するに、中国は近い将来、深刻な嫁不足mal d’épousesに陥ることを警告して記事は終わる。
わが国の現状を見るかぎり、その心配からはほど遠いし、選別的妊娠中絶が行われているとはとうてい信じがたい。しかし、そうかといって、儒教的な男尊女卑の精神を完全に脱却したと言いきれるのかどうか。今は沈静化したようだが、天皇制をめぐる議論を想起してみよう。あの一事をとっても、日本が「脱アジア」を遂げていないことを認めぬわけにはいかないのである。 |