朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
固有名詞の扱いにくさ 2007.09エッセイ・リストbacknext
人名も地名も、固有名詞は特有のものを指す。だから一つしかない。ところが、国語の違いがかかわると、話はそれほど単純ではなくなり、訳読の障害になることもある。 まず人名を例にあげよう。キリスト教の世界chrétienté、[英]christendamでは12使徒apôtres(apostles)に因んだ名(prénom, first name)がよく目に付く。それは広大な地域に共通の現象だが、それだけに元は同一の使徒名に発しているのに、国語によって表記が異なるケースが生じやすく、油断がならない。たとえば日本ではペトロ(ペテロ)と呼ばれる使徒はフランス語ではPierreだが、英語ではPeterだ。以下、一部異説のあるものを除き、主なものについて、日本語、仏語、英語の順に書き出してみる。
シモン
Simon Simon
アンデレ André Andrew
ヤコブ Jacques James

ヨハネ
Jean John
フィリポ Philippe Philip
バルトロマイ Barthélemy Bartholomew
マタイ Matthieu Matthew
トマス Thomas Thomas
ユダ Judas Judas
 シモンやトマスの場合は英仏語とも綴り字は共通だが、発音がちがっていて、カナで表記すると、前者は「シモン」「サイモン」、後者は「トマ」「トーマス」となる。まして他の場合はややこしい。人気の高い英国のアンドリュー王子もフランスではPrince Andréであり、「名誉革命」Glorious Revolution(フランスではla deuxième révolution anglaise)で王位を追われフランスに逃れたジェームズ2世James IIは亡命先ではJacques IIであり、フランス史で名高い「聖バルテルミーの虐殺」massacre de la Saint-Barthélemyも英語ではthe massacre of the Saint Bartholomewとなり、初めどちらの言語で習った人も戸惑うことになりかねない。
地名の場合はどうだろう。対象を英仏語圏だけにかぎっても、なにぶん歴史的なかかわりが深く長い両国だけに、表記の面ではまことに入り組んでいる。その入り組み方を象徴するのが15人制ラグビーrugby à XVの5カ国対抗トーナメントTournoi des Cinq Nationsだろう。5カ国とあるが、その中身はイングランドEngland、 スコットランドScotland、 アイルランドIreland、 ウエールズWalles、フランスだった(いまはこれにイタリアが加わってSix Nationsとなっているが、2000年までは5カ国だった)。さて、この場合、フランス以外のチームは国代表ではなく、英国の地方(アイルランドは20世紀になってから独立したが)代表にすぎないのではないか
  ここでnationという単語が使われていることに注意しよう。制度で支えられるEtat「国家」とはちがって、一つの歴史や言語や文化や経済を共有する共同体という捉え方にちがいない。具体例として、スペインのバスクやイラクのクルドを連想すればよかろう。日常的にわたしたちが英国と呼ぶ国にしても正式名称は連合王国Royaume Uni, United Kingdomであることを忘れまい。連合を形成する四つの共同体、それらは古いだけにいちいちフランス語風の名称を持ち、それがAngleterre, Ecosse, Irelande, Gallesである。逆にいえば、これらの地名に出合ったとき、わたしたちは上記の「イングランド」以下の地名を思い浮かべなければならないことになる。

太湖の水質汚染(写真:大紀元時報)
 ところで、問題は仏英両語のあいだだけに限らない。フランス語(英語でも同じこと)の新聞で不安の種は、漢字表記のはずの中国の人名や地名がアルファベットで音しか表わされていないことだ。つい先日も「ル・モンド」紙(7月11日付け)にこういう見出しが載っているのを前にして往生した。
 Le combat du Chinois Wu Lihong contre les pollueurs du lac Taihu. le lac Taihuの方は地図を照合した結果、長江(揚子江)の河口近くにある「太湖」であることがわかった。しかしWu Lihongの方は、人名だということは確かなのに、漢字の見当がつかない。こんな時、出てきた人物が名士の場合はよい。たとえばHu Jintao やWen Jiabaoという綴りを見ても、ピンとこないが、インターネットでそれぞれ胡錦濤(主席)と温家宝(首相)という漢字を示されると、にわかに得心がいくからだ。ところが、いま問題のWu Lihong氏の場合は、「環境保護運動の活動家」militant écologiqueとして中国当局に逮捕監禁されたという事実経過は読み取れても、中国語のできないわたしには漢字の名をつきとめることができず、妙な宙吊りの気分が残る。やむなく、人名はカタカナ表記のまま、上記の見出しの訳を記す。
「中国人ウー・リホン、太湖汚染の元凶らと戦う」
観光案内によれば、太湖は古来、風光明媚な観光地として知られ、その畔にある無錫Wuxi(音標文字だから別の表記もありうる)は「太湖の輝く真珠」とまで謳われたらしい。その一方、Wuxiは15を数える経済中心都市の一つとして急成長し、全国GDP順位のベスト10にランク、一人あたりのGDPは江蘇省Jiangsuのトップだという。
 この繁栄の行き過ぎが記事の報じる惨状を招きよせたものにちがいない。
 Le troisième plus grand lac de Chine est asphyxié par des rejets industriels sauvages.
 Le militant écologiste qui les dénonce depuis dix ans a été emprisonné en avril.
「中国で三番目に大きい太湖は未処理の産業廃棄物により窒息状態に陥っている。環境保護を主張する活動家は10年前からこれを告発してきたが、4月に収監されてしまった」
 Fin mai,...l’écosystème du lac Taihu a rendu l’âme et... les algues malodorantes ont fini d’envahir les robinets des habitations, privant d’eau quelque 2 millions de personnes à Wuxi...
「5月末、太湖の生態系は死に、悪臭を放つ藻(写真をみると、アオコ特有の緑色が湖面を埋めている)が住宅の蛇口に完全に侵入しつくし、無錫市の約200万人から飲み水を奪ってしまった」
 要するにWu Lihongさんの警告が生かされなかったばかりか、逆にpollueursの画策で口を封じられたことになるが、この環境汚染pollutionの進行がわたしたちにとって対岸の火事ですむわけがない。それにしても、彼の漢字名が気にかかる。
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