19世紀末の詩人ランボーArthur Rimbaudの詩篇Fleurs「花」冒頭の一節を読んでいて、思いついたことがある。まず問題の箇所を示す。
アルテュール・ランボー |
D’un gradin d’or, ─ parmi les cordons de soie, les gazes grises, les velours verts et les disques de cristal qui noircissent comme du bronze au soleil ─
je vois la digitale s’ouvrir sur un tapis de filigranes d’argent, d’yeux et de chevelures.
「金色の段々のひとつから、──絹紐や、灰色の紗や、緑のビロードや、陽を浴びてブロンズのように黒ずむ水晶の円盤に混じって、──ジギタリスが、銀と目と毛髪の透かし細工でできた絨毯の上に開花するのを、私は眺める」(中地義和訳)
「私(=詩人)」は池畔の土手に寝そべっているとか、劇場の階段から客席を見おろしているとか、さまざまな解釈の可能性を解説者は示唆するが、いずれにせよ、色彩や鉱物・織物を指す語句が表題と共鳴して、華やかな方へ想像力を誘う。
もっとも、詩の鑑賞は本題ではない。わたしの関心はdigitale, digitalis(仏語・英語の順。以下同)にある。むろん英語の発音をカナで表記した「ジギタリス」で通っている草花であり薬草であるが、辞書によると、胡麻の葉草科に属するとある。そこで思い起こすのは、cosmos(英仏共通)を「秋桜」と呼ぶような伝統の存在だ。例をあげれば、pâquerette, daisyを「雛菊(ヒナギク)」、pensée, pansyを「三色菫(サンショクスミレ)」、géranium, geraniumを「天竺葵(テンジクアオイ)」と呼ぶような類い。これらの「異称」の背後には、在来種との類似や連想を頼りに、なんとかして日本語の体系に取り込もうという先人の努力が感じられるのではないか。ところが、こう並べただけですでに明らかなように、このような漢字表記の呼び名は今や廃れてしまったと考えざるをえない。pois de senteur, sweet peaは「スイートピー」で十分であり、わざわざ「麝香豌豆(ジャコウエンドウ)」と呼ぶにはおよばないというのが、現代人の感覚だろう。
ジギタリス
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それどころか、この頃の花屋はカタカナ名に占領されている。たしかに、cyclamen(同形)は「シクラメン」、dahlia(同形)は「ダリア」、tulipe, tulipは「チューリップ」以外ない。こうなれば、crocus「クロッカス」は英仏同形だが、仏語の発音は「クロッキュス」だし、「グラジオラス」はglaïeul, gladiolus、「ヒヤシンス」はjacinthe, hyacinthで、わずかながら綴り字、発音ともに違う、などと言いたてるのも、詮無い。新奇な花は輸入品はもちろん、日本各地で栽培されていようとも、高い値札を付せられるには、カタカナにかぎる。いまさら年寄りぶるつもりはないが、現代人は祝いや見舞いに際して、カタカナ名の花を贈らねば、安物で済ませたような体裁の悪さを感じるのか、と冷やかしたくなる。
文明批評で知られるジャーナリストJean-Claude Guillebaudはヴェトナムの愛煙家について興味深い事実を伝えている。現地の中流市民は、Vinh Hoï とかThang Longとかいう国産タバコなら1箱12ドンで買えるのに、1000ドンもするLucky Strikeに手を出すのだそうだ。そこで地元の業者が対抗策として、国産シガレットにdes appellations à consonance anglo-saxonne「アングロサクソン風の響きをもつ名称」を採用した、というのである。ギイユボ氏はBel exemple de signe l’emportant sur la substance !(現代社会の)「実質よりも記号がものをいう好例!」と嘆くのだが、この嘆きをそのまま日本の「花」市場に当てはめるのはコジツケが過ぎるかもしれない。
digitaleについての感想はもう一つある。それは今流行りの「デジタル」と同音であることにかかわる。日本語の「デジタル」はここでも英語に源がありdigitalという形容詞がそれだ。その元には名詞digitがあり、「(0から9までの)アラビア数字;(手・足の)指」と英和辞典は説く。その結果,派生した形容詞digitalには「数字の、数字で示す」と「指の、指状の」の両義があり、さらに前者の派生義として「デジタル方式の」が加わったという次第。
フランス語はどうか?たしかに、digitaleは形容詞digitalの女性形として存在する。しかし、面倒なことに英語のようにdigitは存在しない。そのかわり形容詞digitalの語源はラテン語のdigitus「指」だとされる。その結果、doigt/digital(名詞/形容詞)という連関が生まれる点は英語よりも自然だが、反面、「数字の」という語義展開の謂れはない。まして「デジタル方式の」を語義に加えるためには、余程の荒業がいる。そこでフランスの辞書はdigital(e, aux)を見出し語に採用するにあたり、「指の」とは別項目とした上、anglicisme「英語からの借用語」と断ったのだった。しかも、事はそれですまなかった。官薦語(décret du 7 janv.1972 relatif à l’enrichissment de la langue française「1972年1月7日制定のフランス語充実に関する政令」に基づく)として、digitalではなく、numériqueが採択されたのである。同じ政令に従い、「コンピュータ」をcomputerではなくordinateur、「ソフトウエア」をsoftwareではなくlogiciel、「ハードウエア」をhardwareではなくmatériel...にするよう薦められたことは知る人も多かろう。
最新のPetit Larousse辞典によると、computerは見出しから削られ、digitalの項は残っているものの、Vieill. anglic. déconseillé「やや古、英語からの借用語、非官薦語」と頭記した上、numériqueと同義としてあるから、上記の政令はすくなくとも一部については効果を発揮し、英語の侵入を阻止したのだろう。
ただし、フランス語の社会でも英語の支配が日に日に進行していることはいうまでもない。それを如実に示す証拠がまたもわたしの手元に届いた。以下に転記するのは、Le Monde紙国際版 2月2日付け週刊抜粋の1面トップを飾る二つの記事のタイトルである。
Le trader a livré sa version de l'affaire Société générale
「(問題の)金融トレーダー、ソシエテ・ジェネラル銀行事件について釈明」
Un Open d’Australie de tennis plein de surprises
「テニスの全豪オープン、番狂わせ続出」
openはともかく、traderには opérateur という仏語があることを申しそえておく。
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