「後は野となれ山となれ」にあたるフランスの諺はAprès moi le déluge.(英語でもこれを使うようだ)。今はPékin: et après?「北京大会、その後は」が問われる時期だが、ここでは、フランス人が大会をどのように受け止めたか、ちょっと振り返ってみよう。
きっかけは、ある日本のテレビ解説者が「メダル数で大騒ぎしているのは、主催国を別にすればアメリカと日本くらいのもので、ヨーロッパはずっと冷めている」と訳知り顔に語っていたこと。もっともらしいが、これは事実に反するだろう。
わたしとてLe Monde紙を覗いた程度だが、それでも、大騒ぎの気配が察せられる。てっとり早い例をあげれば、平素は実に冷静で、めったなことでは型を崩さないこの新聞が連日JO Beijingと題する特集記事を組み、開会前から期間中を通じて、別刷りにして本紙にはさみこんだ。これほどの特別扱いは日本の各紙でさえもやらなかったろう。閉会後、総括の記事を掲げ、花火で輝く「鳥の巣」競技場のカラー写真にならべて「メダル表」Tableau des médaillesを示したところまでは日本とかわりないが、1-Chine Or 51, Argent 21, Bronze28以下12-Pays-Bas(オランダ)まで金メダルの獲得数順に国名とメダル数を色つきで示したばかりか、9位イタリアと10位フランスの間にことさらM.Phelps(USA) 8 という個人名を割り込ませ、首位の中国ともどもゴシック文字で強調している点は、並み大抵の力の入れ方ではない。淡々と下位のほうまで数字を並べただけの日本流と比べれば、同紙の興奮ぶりが際立つ。この太字の意味は、アメリカ人泳者の偉業の称賛であるより、不甲斐ない自国代表への面当てだと思うのは、偏見だろうか。
「鳥の巣」での開会式
(「人民中国」誌表紙より) |
もっとも、そうかといって、Le Mondeらしさが失われたわけではない。
特集記事にしても、競技の経過報告に終始するのではなく、le journal de chine「中国新聞」と題され、多くのスペースはスポーツを離れた、中国の政治・経済・社会に関する、突っ込んだ紹介に充てられている。その結果、共産中国の元を築いた毛沢東のスポーツ観だとか、インドが五輪大会開催ではなくIT技術教育充実に投資しているという国家戦略の違いだとか、演出の張藝謀Zhang Yimou監督に対する、栄光の陰で「国に魂を売った」avoir vendu son âmeという批判(彼の初期の作『活きる』は未だに国内で上映禁止のままらしい)だとか、を紹介している。それはそれで興味をそそられるのだが、ここでは、「読者の声」Courrier欄に着目し、どんな反響が当紙編集部の目に止まったか、その一端を紹介する形で、冒頭の課題に答えたいと思う。
一つは、Comptons les médailles de l’Union européenne!「EUとしてメダルの数を数えよう!」という見出しのついた、リヨン在住の読者の意見。
Je trouve déplorable de ne pas trouver dans le tableau des médailles que vous publiez l’Union européenne qui, pourtant, figurerait largement en tête devant la Chine si mes calculs sont exacts.
チャン・イ・モウ総監督 |
「貴紙のメダル獲得数表に『ヨーロッパ連合』が見当たらぬのは残念です。わたしの計算が正しければ、EUは中国を大幅に上回るでしょうに」
この投書は「EUの重要性をアピールする折角のチャンスを失した」という一方、「そもそもメダルと愛国心を結びつけることに興味はない」と説いて終わるのだが、それにしても、大会を通じてメダルの行き先に一喜一憂していたことを証していよう。
もう一つはDes Jeux olympiques sans âme「魂をなくした五輪競技」という見出しのついた、シンガポール人の意見。もともと「海峡タイムズ」紙への投書だから、フランスとの関わりはないが、編集部がこれに共鳴したからこそ、転載したものと思われる。
J’apprécie énormément le spectacle humain que représentent les JO de Pékin, mais je dois dire que l’obsession chinoise qui veut que tout soit absolument parfait me rappelle des JO de Séoul en 1988. Pendant ces Jeux-là, tout, depuis la cérémonie d’ouverture jusqu’à la cérémonie de clôture, a été géré avec une précision d’horloger, mais sans le sentiment de joie que le coeur attendait.
「北京オリンピック大会が表現する人間劇をわたしは高く評価するものですが、全てが絶対に完璧でなければならぬという中国人の強迫観念は1988年のソウル大会を想起させるといわざるをえません。あの大会中、開会式から閉会式まで、一切が時計屋なみの正確さで運営されましたが、ハートが期待する喜びの情はありませんでした。」
筆者はこの後、その喜びはバルセロナやシドニーの大会にはあったことを述懐し、その上で北京大会の開会式全体にのしかかるun pouvoir qui veut la perfection à tout prix「何が何でも完璧さを欲する力」の存在を指摘する。このpouvoirが中国政治を牛耳る共産党権力を指すと考えると、この受け止め方は開会式の中継放送を見た日本人一般に通じる。その意味では目新しくもなんともない。ところが、わたしがこの投書に注目するのは、この指摘の後につぎのような反省がつづいているからだ。
Je suis Singapourien, je suis né et j’ai grandi à Singapour, et à ce titre je ne sais que trop bien que nous avons la même tendance perfectionnsite en nous.
「わたしはシンガポール人です。シンガポールで生まれ育ちました。ですから、わたしたち自身この完璧主義の傾向を内に抱えていることが身にしみてよくわかるのです」
この文面からすれば、pouvoirは「完璧主義の追求欲」の意味だ。そうなれば、このpouvoirはわたしたち日本人の心にも巣食っていると認めざるをえない。それなのに、あの放送を見ながら、わたしは「日本は中国とは違う、全体主義や国家主義に凝り固まっていなくてよかった」と考えて、胸をなで下ろしていたように記憶する。このシンガポール人の投書はわたしの浅はかさを暴露してくれた。フランス人は結局のところ、日本もアジアの一国であるという認識に立っていることをあらためて教えられた気がする。 |