朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
ボルト旋風 2009.9エッセイ・リストbacknext

ボルト選手
写真:Daily life
 「鳥の巣」Le Nid d'oiseauと題して、北京オリンピックを話題にしたことがあるが、それがつい1年前のことだとは思わなかった。世界経済危機やらオバマ大統領の誕生やら豚インフルエンザの流行やらウイグルの大暴動やら、さまざまな異変が続いたせいなのか、それともただ単に老化に暑さが重なったせいなのか、もっと遠い昔の出来事とばかり思いこんでいたのである。あれから人類はずいぶん苦しい目にあったが、それにしてもあの熱狂がすさまじかったことを、まざまざと思い出させてくれたのが、世界陸上選手権におけるle Jamaïcan Usain Boltの活躍である。彼はちょうど1年前に鳥の巣競技場で世界新記録le nouveau record du monde を連発してその名を世界中にとどろかせたのだった。今度はベルリンで、4日前の100mにつづいて200mでも(Bolt remet ça!「ボルトがまたやったぜ!」)自身の記録を塗り替えたのだが、それを伝える記者はタイムの凄さを示そうとvertigineux「気が遠くなるような」とかinsensé「とてつもない」とかいう形容詞を使った。そして、当のボルト選手のことを「世界陸上の文句なしのスター」(le) star incontesté des Mondiaux d’athlétisme(Le Monde紙)、le phénomène Usain Bolt「異才ウサイン・ボルト」(Le Figaro紙)と評して持てはやした。
 因みにphénomèneという語には注意がいる。ご存じのとおり、元来は「現象」と訳される語だが、ここではpersonne rare, extraordinaireの意味であり、「偉才」という字の方がふさわしいかもしれない。ただ、phénomèneは一歩まちがえばindividu anormal, bizarre「変人、奇人」の意味にもなるから厄介だ。もっとも、ボルト選手の場合、レース外の言動から推して「変人」の部類に入れたくもなるのだが。
 それはともかく、今回はごく平凡な話にとどめる。というのも、ボルト関連のスポーツ記事を読んでいて気付いたことがあるからだ。引用するのは8月17日(月)、すなわち100mの世界記録達成で早くも興奮の極に達した世界が、200mの予選sériesを翌日に控えて期待をますます高めつつある時期のフィガロ紙の記事である。(イタリック・ゴチック・下線の指示は朝比奈。①②③のあとに対応する訳文を示す)

ベルリンのオリンピア・シュタデイオン競技場
写真Nikolai Schwerg/The Berlin Olympic stadium / Source German Wikipedia
 ①« Il va bientôt falloir mettre des panneaux de limitation de vitesse dans le stade », lançait lundi Leslie Djhone. ②Le ton du recordman de France du 400m, en piste mardi matin pour les séries, a beau être railleur, il n'en est pas moins révélateur. ③Usain Bolt ne bluffe pas que le grand public. Il épate également ses pairs, les techniciens et toute la famille de l’athlétisme. « C’est fabuleux ! C’est la spontanéité à l’état pur dans le geste sportif », s'enflamme François Pépin, l’entraîneur de Djhone.
 まずレスリー・ジョーヌについて一言。昨年の北京オリンピックの男子400mでは米国勢が金銀銅を独占したが、その時5位に入ったのがDjhoneで、フランスでは国民的に人気の高い中距離ランナーである。上の記事は彼の発言で始まっている。
  [語釈] il va falloir ... は非人称構文il fautと近接未来をあらわすallerとの組み合わせ。limitation de vitesseは道路の最高速度表示。
 ▶①「もうじき競技場内に最高速度制限の表示板を立てなくてはなるまいね」と月曜日にレスリー・ジョーヌが言い放った。
 さて、勘所の第一は、挿入節における倒置である。引用文中、イタリック体のlancer はémettreの意で、冒頭のカッコ内のコトバの語り手がジョーヌであることを示す。平凡なdireではなくlancerであるのは、彼が自らランナーであるのを棚にあげて、冷笑的な冗談を飛ばした、その語調が投げやりだったことを示す。それとは別に、この動詞と主語Djhoneの位置が倒置されていることを見逃すまい。段落の最後のイタリックの動詞s'enflammeと主語のFrançois Pépinも同様に倒置されている。
 勘所の第二は英語の侵入(そもそも上記のstarも元は英語だ)である。記事の引用箇所からは洩れたが、この先では「コーチ」を意味する語として、entraîneurと並んで、coachがごく自然に使われていることに注意。
 この種の借用は日本語ほどではないにしても、ますます顕著である。それを指摘した上でいうのだが、上の引用には興味深いケースが含まれている。問題箇所はゴチックで示したが、第一はrecordmanの場合。これは英語の借用のように見えて、実はfaux anglicisme「フランス製の英語」にすぎず、「真の」英語ならrecord holderというべきところだ。尤もらしい造語だが、night gameのことをnighterという和製英語を連想すればよかろう。なお、Petit Larousseによると、複数形がrecordmansと recordmenの2種あるというのだが、珍妙な意地の張り方ではないか。
 もうひとつ動詞blufferの場合も面白い。元来はトランプのポーカーで、強い持ち札があるように見せかけて脅しをかけることを指す米語のようだ。それがbluff 「はったり、こけ脅かし」という名詞になり、さらにblufferという動詞が派生した。類例を一つあげれば、shampoo[英]「シャンプー;シャンプーする」がある。まずフランス語の名詞shampooing 「シャンプー」がshampooiner, shampouiner「シャンプーする」という動詞になり、さらにshampooineur, se ; shampouineur, se「シャンプー係」が派生した。いってみれば、本家本元の英語よりもコトバが肥大してしまったことになる。
引用文の和訳にもどろう。
 ▶②400mのフランス記録保持者(=ジョーヌ)は火曜日に予選に出場するが、彼が語調をいくら冗談めかしても無駄で、やはり真実を突いていることに変わりはない。
 [語釈] avoir beau +不定詞=「いくら...しても(無駄である)」; n'en ... pas moins ~ = 「それでもなお~だ」(因みに、彼は決勝まで残ったが、最下位に終わった)
 ▶③ウサイン・ボルトはなにも一般大衆だけにはったりを利かしたわけではない。同様に同輩たち、陸上競技の専門家や一族全員の度肝を抜いたのだ。ジョーヌのコーチ、フランソワ・ペパンは興奮の口調で語った。「考えられない話さ!身のこなしは立派なスポーツ選手なのに生まれながらの自然さがそのまま保たれているのだからねえ!」

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