朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
逆さコトバ 2015.03エッセイ・リストbacknext

パリ郊外の団地 ※画像をクリックで拡大
 「ウマイ」の代わりに「マイウー」という。某タレントがギャグにしてはやらせたようだが、一部の若者は「銀座で寿司を食べた」という平板さを避けて「ザギンでシースーを食べた」というらしい。つまり「逆さコトバ」であるが、これはフランス語にも存在する。すなわちverlan(l’envers「あべこべ」という単語の逆様)である。これが、例のCharlie Hebdo事件をきっかけにあらためて注目されるようになった。どういうことなのか。
 そもそもverlanはargotの一種である。argotにあたる日本語は「隠語」だが、これを説明しようとして伝統的な国語辞典Littréは第一にこう記している。
 Langage particulier aux vagabonds, aux mendiants, aux voleurs et intelligible pour eux seuls.「放浪者、乞食、泥棒に固有で、彼らにのみ通じる言語」
 つまり歴史的に見ると、社会の底辺や周辺で暮らすマイノリティのコトバだった。極端な例をあげれば、仏語としてのkimonoは「日本の着物;転じて、和服風の部屋着」を意味することはもちろんだが、Dictionnaire de l’argot moderne「現代隠語辞典」(Sandry et Carrère編)によれば「阿片吸引者が仕来りとして着用する服」を指したという。この後ろぐらい感じは「隠語」という日本語にもつきまとうものだが、実はargotの使用はそんないかがわしい領域にとどまるものではない。リトレは第二にこう記す。
 phraséologie particulière, plus ou moins technique, plus ou moins riche, plus ou moins pittoresque dont se servent entre eux les gens exerçant le même art et la même profession.「同じ技術、同じ職業にたずさわっている人々のあいだで用いられる、多少とも専門的で、多少とも豊かで、多少とも風変わりな特殊慣用語」
 手近な例をあげれば、brûler du sucre、直訳すれば「砂糖を焼く」だが、argot des coulisses「役者仲間の隠語」では「拍手喝采を浴びる」ことだという。またEcole polytechnique「理工科学校」のargot scolaire「学生語」では数字のzéroをことさらzéralというそうだ。これらを見ると、仲間うちでのみ通じる合言葉、あるいは符丁のようなもので、Pléiade百科叢書のLe langageで「隠語」の項目に従えば、signum social「社会的記号」(言語学者Guiraudの造語)であり、la cohésion d’une communauté「共同体の団結力」を確認し、自己防衛する一方、他者を排除する狙いがある。わかりやすい例をあげれば、数字の符牒として寿司屋が「ぴん」(1)、茶屋が「吉」(7)を使うとか、JRが「痴漢が出た」という表現をはばかって「線路内に人が立ち入った」というアナウンスをするとか。
 verlanに話をもどす。これは昔からあって、Bourbon王家をBonbourといったり、Toulon(南仏の軍港)をLontourといったりしていたものだが、近年にわかに社会的な意義が増大し、その結果verlaniser「逆さコトバを作る」という動詞、その名詞verlanisationが言語学者のあいだで論議されるようになった。仏和辞典にも載っている語を例にあげれば、beur。「移民の子としてフランスで生まれたマグレブ人の若者」を指すが、元はara-beuhの逆さまbeuh-araが短縮されてできた。同様にして、Américain「アメリカ人」はCainriまたはRicain、Chinois「中国人」はNoicheとなる。仏和辞典に未採録の語まであげれば、maison「家」はzonmai、voiture「車」はturvoi。名詞以外にもひろがって、lourd「鈍重な」はrelou、manger「食べる」はgémanなどなど、とどまる所を知らない。

Les Ripoux
(c) Copyright IMY - Cinemotions.net
※画像をクリックで拡大
 注目すべきは、1970年代以降マスメデイアの強い影響をうけて(それを象徴するのが、Claude Zidi監督の映画Les Ripoux:pourriのverlan「腐敗警官」邦訳タイトル「フレンチ・コップス」1983年制作)社会全体に急速にひろまったこと。なかでもパリ郊外の団地grands ensemblesに住む移民の青年たちが流行の中心になったことである。Les aspects stylistiques de la verlanisation「逆さコトバ作りの文体的諸相」の筆者Alena Podhorná-Polickáはその後の展開をつぎのように解説している。
 A la fin de cette période médiatique, la mode de la verlanisation est abandonnée petit à petit par tous à l’exception des jeunes des cités franciliennes* pour lesquels ce procédé formel n’a pas cessé de servir comme une source inépuisable d’innovation lexicale et de renforcement de leur identité interstitielle**. Après une période de mépris systématique de ce procédé exprimé dans la bouche de beaucoup de « Français de souche », on observe que certains mots dépassent les barrières régionales et sociales et entrent dans le lexique de tous les jeunes Français, dans l’ « argot commun » des jeunes, si l’on emprunte la terminologie de Denise François-Geiger.
 *francilien(ne) :Ile-de-France(フランスの地方・地域圏)の
 **interstitiel(le) :元来は解剖学・医学用語の「間質中の、間質性の」。ここでは、「フランスとマグレブ、両民族・文化の狭間にいる情況」を指すと解すべきだろう。
 「このメデイア支配時代の末期、逆さコトバ流行は皆から徐々に飽きられていったが、イル・ド・フランス地域圏の都市の若者たちは例外だった。彼らにとってこの造語法は語彙を刷新し、自分たちの中間的なアイデンティティを強化する無尽の源泉として役立ちつづけたのだ。<生粋のフランス人>の多数からこの造語法は執拗に蔑視される時期があったが、その後を見ていると、ある種の語は地域や社会階層の境界を越えて、ドニーズ・フランソワ=ジェジェールの用語を借りれば<普通の隠語>としてフランスの若者全員の語彙に入っている。」
 この社会言語学者の分析で明らかにされたのは、標準フランス語と逆さコトバとの対立であり、それに重なりあう形で顕在化してきた、フランスで生まれ育った<生粋のフランス人>と移民の子として育ったフランス人との対立という構図である。いってみれば、斬新なverlanの流行が集団的無意識の奥に潜んでいたFrançais de soucheという愛国主義の地層を暴き出したということだろう。
 そもそもverlanにはcrypto-ludique「隠れた遊戯的」な側面もあり、外国人のわたしが安易に立ち入りにくい問題であることは認めねばならない。しかし、特にパリ郊外に住むbeursの不満がCharlie Hebdo事件の背景にあることが指摘された今となっては、verlanが少なからずその不満の吐け口になっていることをつい想像してしまうのである。
 
筆者プロフィールbacknext

【NET NIHON S.A.R.L.】
Copyright (c)NET NIHON.All Rights Reserved
info@mon-paris.info