朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
感覚の表現 2015.04エッセイ・リストbacknext

上田敏
 たまたま朝日新聞の「歌壇」を見ていたら、つぎの一首に出会った。
 キムチ鍋と決めていたのにサバを買うきろんきろんの瞳に負けて
                      (佐渡市)藍原秋子
 選者も指摘するとおり、「きろんきろん」が歌の決め手だろう。魚の生きのよさを示す「きときと」(富山の方言)ともちがうし、辞書に載っているはずもなく、作者の印象から即興的にうまれた造語なのだろう。でも、この一語で、読む者はサバ(鯖でもさばでもない)の鮮度を感じとり、食いしん坊の私などはうまい〆鯖の味わいをついつい連想してしまう。
 この感覚をフランス語で表現するとどうなるか。日本語のような擬態語にとぼしいから、 Renonçant au pot-au-feu Kimuchi prévu, j’ai acheté un maquereau, charmée par ses yeux brillants de fraîcheur. といった分析的な表現に落ち着くのだろう。(拙訳で失礼!)
 ただ、そうかといって、感覚の表現においてフランス語がつねに劣勢に立つというわけではない。それどころか、フランス詩の邦訳者の苦労はたいへんなもの。なにしろ母音の数を比較しただけでも明白なように(5対16)、フランス語は音韻豊かな言語であり、その特色を生かした韻文に向き合うとなれば、日本語の貧弱さがきわだってきて、訳者たるもの、彼我の差を埋めることなど原理的に不可能だと気づかされるからだ。
 名訳として知られる上田敏の訳詩集『海潮音』を例にあげよう。Fabre『昆虫記』の訳者奥本大三郎氏はもともとRimbaud研究者としてスタートしたから、その素養を生かして、近著『虫から始まる文明論』(集英社)の中で興味深い上田敏論を展開している。氏がまず引き合いに出したのはVerleineのChanson d’automne「秋の歌」だが、これこそ有名な「落葉」の原詩である。氏にならい二つを並べて掲げる。

  Les sanglots longs
    Des violons
      De l’automne
  Blessent mon cœur
    D’une langueur
      Monotone

  Tout suffocant
    Et blême, quand
      Sonne l’heure,
  Je me souviens
    Des jours anciens
      Et je pleure ;
 
  Et je m’en vais
    Au vent mauvais
      Qui m’emporte
  Deçà, delà,
    Pareil à la
      Feuille morte.

秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘の音に
胸ふたぎ
色かえて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

 ヴェルレーヌは第一詩節(以下も同様)、12音綴詩句を3分した上で、-longs/-lons/-omne/ -œr/-œr/-one、つまりaabccbという風に脚韻を踏ませている。文意もさることながら、肝心の韻律を伝えねば、翻訳する甲斐がない。訳者は苦心の末に、五音の句を連ね(「の」の連発で韻を強調)、節の最後を「うら悲し」「おもひでや」「落葉かな」のように俳句風に締める策を講じた。奥本氏は自らの直訳を示しつつ、上田訳の巧みさに脱帽する。その上で、訳文の日本化が徹底していればいるほど、両国における「秋」の風土的かつ文化的な違いが浮き彫りになるとして、独自の「比較文明論」を導きだす。詳しくは氏の著書を見ていただきたい。ここでは、上田敏が原詩の音韻の魅力を何とかして邦訳に反映させようとした工夫のあとに注目するだけにして、別の例をとりあげたい。
 それはフランス象徴詩の先駆け、BaudelaireのHarmonie du soir「夕べの諧調(ハーモニー)」(詩集Les Fleurs du Mal『悪の華』所収)。4行4節、16行からなるが、脚韻は2種のみ、しかも、各節の2、4行が次節の1、3行に繰り返されるという一種のカノン形式を採っているため、単調な音の反復が倦怠感、さらには眩暈を誘う。ヴェルレーヌの場合以上に、音韻の効果が作品の鍵をにぎっていることは明らかだ。上田敏は「薄暮(くれがた)の曲(きょく)」という題で訳出したが、どんな対策を編み出したか。紙面の関係で、ここでは第一節だけしか引かない。
 まず原詩と原意に忠実な阿部良雄訳(ちくま文庫)を示そう。

 Voici venir les temps où vibrant sur sa tige
 Chaque fleur s’évapore ainsi qu’un encensoir ;
 Les sons et les parfums tournent dans l’air du soir ;
 Valse mélancolique et langoureux vertige !

 「今や時はおとずれて、おのおのの茎の上に震えつつ、
 どの花も、香炉さながら、薫じ立ちのぼる。
 もろもろの音も香りも、夕べの空中を廻(めぐ)る。
 憂愁(メランコリア)の円舞曲(ワルツ)よ、けだるい眩暈(めまい)よ!」

 対する上田訳はつぎのとおり。

 「時こそ今は水(みづ)枝(え)さす、こぬれに花の顫(ふる)ふころ。
 花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
 匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
 ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦(う)みたる眩暈(くるめき)よ。」

 圧巻は「とうとうたらり、とうたらり」だが、能の『翁』から引いたものと思われる。

香炉 ※画像をクリックで拡大
 意味不明だが、神を呼び出す呪文の働きを持つという。ボードレールは脚韻にencensoir「香炉」(1、2節)、reposoir「聖体遷置台」(2、3節)、ostensoir「聖体顕示台」(4節)を用いて、カトリック聖堂内のミサの雰囲気を援用しようとした。上田はそれを承知で能舞台の神事を持ち出した。当否はともかく、原作に肉薄しようとする翻訳界のパイオニアの懸命な取り組みに喝采を送ろうではないか。もっとも、フランス詩を日本語に移し替える作業の困難さは彼の死後100年たつ今も変わらない、それを忘れてはならないのだが。
 
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