朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
イスラム恐怖症 2015.07エッセイ・リストbacknext

「Je suis Muslim. Don't panik」と訴えるTシャツ ※画像をクリックで拡大
 今の日本では左翼・右翼どちらも形骸化して、いっそ「サヨク」「ウヨク」とカナ書きの方がふさわしい。「ウヨク」気取りの小説家が沖縄の新聞は「サヨク」に乗っ取られたといいだして大騒ぎになっている。発想が下品、言葉遣いも子どもっぽいが、それだけに、影で牙をむくマッカーシズムの恐ろしさには寒気がする。
 フランスでは、ル・モンド紙を見るかぎり、gauche/droiteの対立構造はあいかわらず健在のようだ。前回、1月のCharlie Hebdo事件以来islamophobie「イスラム恐怖症)」がひろまる社会状況に思想家エマニュエル・トッドが危機感をもち、敬遠されがちなイスラム教に歩み寄る態度を表明し、左翼に衝撃を与えたと書いた。ル・モンド紙(5月8日付)にしたがい、論議の中身をすこし紹介する。
 そもそも左翼にとって、宗教は否定的なイメージしかもっていなかった。それをMarxはl’opium du peuple「民衆の阿片」とみなし、Freudはune grande illusion「大いなる幻想」とみなした。要するに、権力者が民衆をちょろまかす手段になっているという見方だ。その伝統をうけて左翼はathéisme「無神論」が通常の足場だった。ところが、宗教とはいってもイスラム教が持つ現代的意義はどうだろう。
 Religion des pauvres en Occident, l’islam serait donc à défendre contre les forces de la Réaction.
 「西欧における貧乏人の宗教であるからには、イスラム教は反動勢力から彼らを防衛する義務があるだろう」
 こう主張したのは哲学者Pierre Tevanian。彼は著書La Haine de la religion『宗教への憎悪』の中でl’athéisme est devenu l’opium du peuple de gauche「無神論はいまや左翼の民衆の阿片になっている」と極論した。それというのも、宗教を毛嫌いし、蔑視する無神論の立場がわざわいして、まわりで抑圧に苦しんでいるイスラム教徒という弱者の味方をするという、左翼本来の精神が見失われているからだ。
 さらにジャーナリストEdwy Plenelはイスラム教徒擁護の立場からこう書いた。
 La haine de la religion qu’exprime envers l’islam et ses pratiquants un laïcisime intolérant, infidèle à la laïcité originelle, est l’expression d’un déni social : d’un rejet des dominés et des opprimés tels qu’ils sont.
 「不寛容なライシテ(脱宗教性)がイスラム教やその信徒たちに対して宗教嫌いの態度をしめしているが、それは、本来のライシテから逸脱しており、社会的な否認、今まさに目の前で支配され抑圧されている彼らを切り捨てることになっている」
 「長いスカート」をはいたモスレムの少女が入校を禁じられたニュースを5月にとりあげたが、決定をくだした当局者の大義名分が「ライシテ」であったことを想起しよう。この態度は、脱宗教性を唱えて、どの宗教からも等間隔を保とうとしているはずだが、l’Ecole des hautes études en sciences sociales(EHESS)社会科学高等研究院教授Jean-Loup Amselleはその偽善性を指摘する。
 Face aux religions installées de longue date en France, comme le catholicisme et le judaïsme, religions qui bénéficient de lieux de culte publics et d’un financement destiné à l’enseignement confessionnel, il convient que les religions apparues plus tardivement sur la scène nationale bénéficient des mêmes droits, et il est donc nécessaire que l’Etat favorise la construction de mosquées tout comme il doit financer l’enseignement musulman. Faute de quoi, le principe du « deux poids, deux mesures » continuera de nourrir le ressentiment de ceux qui estiment pâtir d’un traitement défavorable de la part de la France.

Grande Mosquee de Paris ※画像をクリックで拡大
 「古くからフランスに定着してきたカトリック教やユダヤ教は、公共の礼拝所や宗教教育の財政援助を得ているが、それに対し遅れてフランスの舞台に登場した宗教にしても、同様の権利を得てしかるべきであって、回教寺院の建設の便宜をはかるとともに、イスラム教の教育に財政支出をするべきである。それを怠るならば、<ダブル・スタンダード>*否定という原理は、フランス政府からの不当な待遇にあえいでいると考える人たちの恨みをこの先もまた募らせつづけるだろう」
 *ダブル・スタンダードについて補足。Deux poids, deux mesures「二つの尺貫法」の語源は、旧約聖書、申命記25章13-14節にあるとされる。
 Tu n’auras pas dans ton sac poids et poids, l’un lourd et l’autre léger. Il n’y aura pas dans ta maison mesure et mesure, l’une grande et l’autre petite.(Jérusalem版)
 「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。」(新共同訳)
 神はこうしてダブル・スタンダードという不公平を戒めたわけだが、égalité「平等」を旗印にかかげるフランス共和国が法の執行にあたってこの戒めを原理に据えたことはいうまでもない。ところが教授は、今や「ライシテ」の原理の適用に不公平の疑いが生じていることを指摘せざるをえなかった。
 この背景には、モスレム生徒のヴェール問題が一つのきっかけで生まれたles Indigènes de la République「共和国原住民」を名乗る反人種差別主義運動の主張がある。ここで深入りする余裕はないが、彼らは植民地拡大に狂奔したフランスの過去に執着し、植民地時代の負の遺産を忘れるな、と主張する。彼らによれば、フランスは昔も今もDeux poids, deux mesuresの国だということになる。
 La démocratie pour les Français, le système colonial pour les colonisés. Le droit de l’homme pour les uns et la torture pour les autres....
 「フランス人には民主主義、植民地被支配者には植民地制度。一方には人権、他方には拷問。...」
 要するに、申命記に示された神の命令に背いて、この国においては、大小二つの重り、大小二つの升が通用している、という主張なのだ。
 トッドに対するヴァルス首相の反論を前回紹介したが、イスラム過激派が本来のイスラムではないことを強調する一方、対抗手段として「ライシテ」と「共和国への愛」をあげていたことを思い起こす。この足元がくずれるとなれば、この先イスラム恐怖症の克服はますますむずかしくなるだろう。


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