朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
クローデル劇における日本(3) 2018.9エッセイ・リストbacknext

中禅寺湖畔のフランス大使館別荘 ※画像をクリックで拡大
 前回は、クローデル展の会場に関連して、関東大震災と横浜のことに触れた。同会場で、スタッフの中條氏から、幸運にも、比較文学者の井戸桂子氏を紹介された。その後、彼女からすぐに文献が2点送られてきた。
 一つは、著書の『碧い眼に映った日光――外国人の日光発見』(下野新聞社)。広義のガイドブックだが、専門の研究成果を生かした視点の設定が秀逸で、日光観光のみならず国際交流史にも新風をふきこむ好著だ。クローデルにも多くのページが割かれていて、別掲の写真(中禅寺湖の湖畔にあって、彼が愛したというフランス大使館別荘)は同書から借用させていただいたもの。
 もう一つは、学会の紀要に載った研究発表「日本の島々(ポール・クローデルの『繻子の靴』三日目第八場より)」(「比較文学研究」101号)の抜き刷り。驚いたのは、(1)でわたしが引用したのと同じ箇所に焦点があわされていること。むろん、彼女の場合は作品分析を深めて、副題「高みに昇る、垂直方向の詩句」がしめすように、詩句の「垂直性」に注目し、大使が中禅寺湖畔から仰ぎ見た男体山のイメージを重ね合わせ、作者が考える日本の「神道」の姿がうつしとられていると結論する。「神道」については奥行きが深く、後出のMichel Revon(1867~1945または1947。名高いG.E.Boissonadeの後釜として日本で法学を教え、帰国後は日本文化をフランスで講じた)にもLe Shinntoïsme『神道』(1905)という著書があるほどだが、ここでは彼女の解釈を披露するだけにとどめる。
 わたしとしては、この場にふさわしい別の例をとりあげよう。
 クローデルと日本文化をつなぐ書として、ルヴォンのAnthologie de la littérature japonaise des origines au XXe siècle『日本文学詩華集――起源より二十世紀まで』(1910)の影響が大きいことはよく知られているが、『繻子の靴』では、ルヴォン訳の詩歌が台詞として活用されている。二例をあげる。
 一つ目は、三日目第九場、パナマにある副王(すなわち主人公ロドリーグ)の宮殿で、彼がドニャ・イザベルの歌を聞いている場面に出てくる。副王の所望で、先日海岸で救助された日本人が歌っていたとされるもの。
 ◆Sur la plaine de l'Ocean/Vers les Quatre-vingts I-les/
 Je m'avance en ramant/Ta ra ra ta ta ta! Ta ra ta ra ta ta ta!
 (前掲書、p.827)
 訳者の渡辺氏は、原作が古今集の小野篁であることを突き止め、その前半だという。
 「和田の原  八十島かけて  漕ぎ出でぬと」(前掲書 392-393頁)
 そもそも、これは小野篁が隠岐の島に流罪となり、その舟が漕ぎ出た時の歌だが、思えば、ロドリーグもこの後、任地を捨てプルエーズとの再会に走る。そのため、国王への反逆罪で「流罪」という形で来日する。だとすると、この歌の背景とうまく符丁があう。
 二つ目は、上の場面のあと、これまで執着していた新大陸経営を、あっさり断念する。相手のプルエーズはアフリカにいて、この場に不在なのに、登場人物(副王の返書を書く立場にある秘書官も含め)はいずれも二人の再会を意識して、発話している。

ミシェル・ルヴォン ※画像をクリックで拡大
 Le Vice-Roi, les yeux baissés, presque indistinct. ---Non, non, mon cher amour, je ne vous ai pas oubliée!
 Dona Isabel. ---Ah! je savais bien que je saurais trouver le mot qui fait que votre cœur tressaille!
 Le Secrétaire. --- Vous ne trouverez son cœur que par la porte du souvenir.
 Dona Isabel. --- Pour me faire entendre il suffit que je prenne la voix d’une autre.
 Le Vice-Roi. ---Achevez. Je veux entendre la suite.(id. p.829)
 「副王 (目を閉じて、ほとんど聞き取れない声で)いいや、違う、愛する人、あなたを忘れたことは、けっしてない!
 ドニャ・イザベル ほら、わたしには分かっていた、あなたの心が震えるには、どんな言葉を見つければいいか!
 秘書官 殿下のお心を見つけようと思えば、思い出の戸口から。
 ドニャ・イザベル わたしの声に耳を貸してもらうには、もう一人の女の声を聞かせればいい。
 副王 歌いなさい。続きが聞きたい。」(同、105頁)
 はじめは「忘れてしまった」と言っていたドニャ・イザベルが、ようやく歌い出す。
 ◆ Oubliée,
 Je me suis oubliée moi-même.
 Mais qui prendra soin de ton âme… (id.830)
 「忘らるる
 身をば思はず、この身さえ
 誰が添うのか、御心に?」(同、107-108頁)
 訳者は「忘らるる」の一句から、百人一首の右近の歌のルヴォン訳に行きつく。
 「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」
 Oubliée,
 Je ne me soucie pas de moi-même/ Mais pour la vie de l'homme
 Qui avait fait un serment/ Hélas! Que c’est pitoyable! (同、394頁)
 ドニャ・イザベルは、さらに試行錯誤ののち、つぎの歌詩にたどりつく。
 ◆ De la nuit où je repose solitaire/
 Jusqu'au lever du jour,
 Combien le temps est long,
 Combien les heures sont longues!
 Le sais-tu? Le sais-tu, dis-moi? (id.p.831)
 渡辺訳は、つぎのような訳文を掲げる。
 「嘆きつつ
 独り寝る夜の明くる間は、
 いかに久しきものとかは、
 いかに久しき時の間か、
 知るや、君?知るや、君、いざ?」(同、109頁)
 何のことはない、百人一首で名高い、右大将道綱の母の歌ではないか。ルヴォンの訳をクローデルが「本歌取り」(訳者の言)したもの。元の仏文を以下に示す。
 De la nuit où je repose solitaire/ En sanglotant
 Jusqu’au lever du jour/ Combien le temps est long,
 Le sais-tu? (同、396頁)
 この長大な芝居の本筋は、約言すれば、女が男に宛てた手紙が相手に届かぬまま生涯の終わりに来てしまうことだ。手紙を知った時、男は野心を捨て、国王を裏切ってまで女に会いに行く。その間ほっておかれた女は何を思ったか?その心にふさわしい言葉として作者が選んだのが、和歌の仏訳だった。時代の隔たりを超え、言語の壁を越えて、平安時代の歌人の心が彼に通じた、それを証明してみせたのが『繻子の靴』ということになる。

 
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