朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

翻訳機にできないこと 2019.4エッセイ・リストbacknext

皇居の一般参賀 ※画像をクリックで拡大
 ある外国語教員が最初の授業で「なぜ外国語を学ぶのか?」と問うたところ、「日本では天皇陛下に対して敬語を用いる。ところが、翻訳機では<敬語>が使えない。訪日外国人にそれを教えるために、当該国語を学ぶ必要がある」と答えた学生がいたそうだ。天皇退位abdication de l’empereurや改元 changement d’èreの大騒ぎが、これほどまで若者を惑わしてしまったことに愕然とする。結局は天皇崇拝culte impérialの流れを盛り立てたわけで、巧妙極まる世論操作だ。が、それはともかく、翻訳機traducteur?には無知なまま言うのだが、どこまで進歩したところで、「翻訳」そのものの難しさがすべて解消するはずのないと考える点では、この学生と変わらない。翻訳ぐらい厄介なものはない。
 今度、Albert Camusの L'étranger『異邦人』を生徒さんたちと読むことになって、あらためてそれを痛感した。それまでの小説の定型をはずして、語彙は局限され、直説法複合過去が連発される。だから、入門者でも組しやすい作品と思われがちだが、どうしてどうして、読んでみると意味がとりにくい箇所にぶつかることが少なくない。窪田啓作訳は雑誌「新潮」の1951(昭和26)年6月号に発表され一世を風靡した。その後、新潮文庫で130版を超える名訳として残るが、問題がないわけではない。訳文は、全体として、いわゆる翻訳調を生かしつつ、原文の意図的な生硬さ、単調さをたくみに和文に移植している。でも、読んでいて首をかしげたくなる箇所が、時に、出てくる。一例をあげよう。
 le vieux Salamanoは主人公「私」(Meursault)と同じ建物に住む独居老人だが、8年来、老いた犬と暮らしてきた。散歩の都度、罵ってばかりいるほど険悪な仲だったのに、その犬が行方不明になったとたん、途方に暮れた。見かねて私は自室に招じ入れることにした。老人は、犬はmauvais caractère「性がよくない」が、bon chien「いい犬」だと認めていて、私が同調すると上機嫌になり、皮膚病にかかる前は実に毛並みが美しかったのだと自慢する。その治療のため、朝晩、軟膏を塗ってやっていた。
 Mais selon lui, sa vraie maladie, c’était la vieillesse, et la vieillesse ne se guérit pas. 「が、老人の言によれば、その本当の病気は老衰だというし、老衰では直りようがないのだ。」(新潮文庫改訂版、49頁)
 余談だが、この作品の手ごわさは、こうした警句風の文句がところどころに顔を出すこと。稚拙な(あえていえば、トランプ調の)言葉遣いはあくまでも装いにすぎない。この一句にしても、若い時は役者を夢見たものの早々と断念し、兵隊や鉄道員として生涯を終え、わずかな年金で暮らす年寄りの言葉とは思えぬほどしゃれている。その一方、一端の哲学者を気取る老人が多いことも事実だ。La Rochefoucauldの箴言を想起しよう。
 Les vieillards aiment à donner de bons préceptes, pour se consoler de n’être plus en état de donner de mauvais exemples.(Maximes 93)
「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」 (二宮フサ訳)
 カミュに戻る。愛する対象を失って、悔悟と追憶にひたる老人の長広舌にムルソーはどう反応したか?ここで問題の訳文に行きつく。特に下線部にご注意願いたい。
 A ce moment, j’ai baillé et le vieux m’a annoncé qu’il allait partir. Je lui ai dit qu’il pouvait rester, et que j’étais ennuyé de ce qui était arrivé à son chien :il m’a remercié.
 「このとき、私があくびをしたので、老人はもう帰るといった。私がまだいてもいい、その犬の話に厭きてしまっただけだというと、老人はお礼を述べた。」(同上)
 愛犬の話をして思い出にふけっている目の前で、あくびをされた。それで「失礼する」と老人は言った。それに対し、ムルソーは引きとめたわけだが、その際あくびの言い訳として「犬の話に厭きた」というのは如何なものか?いくら「しまっただけ」と言い足したにしても、それに続けて老人が「礼を述べる」というのはおかしくないか?
 結論の前に、Je lui ai dit以下の間接話法を直接話法になおしてみよう。この方がムルソーの発言がはっきりする。

カミュ「異邦人」(窪田啓作訳) ※画像をクリックで拡大
  « Vous pouvez rester. Je suis ennuyé de ce qui est arrivé à votre chien. »
 その上で、ennuyerの受身形に注目しよう。窪田訳は「厭きた」とした。
Conférencier qui ennuie son auditoire :「聴衆を退屈させる(白けさせる)講演者」
 La longueur du voyage l'ennuie.「彼は旅の長さにうんざりしている」
 これらの用法と同じものと考えたのだろう。しかし、この語の多義性を考えると、即断を避けて、他の訳し方の可能性を探るべきではなかったのか。
Cela m’ennuie, cette petite fièvre.「この微熱が心配だ」
 Votre départ m’ennuie plus que vous ne le pensez.「あなたの出発は気がかりです、あなたが考える以上に」
(いずれもLe Robert Methodique辞典の用例)
 つまり、inquiéter「心配させる」あるいはchagriner「悲しませる」の類義語となるケースがある。これを疎かにしてはいけない。
 そうなると、対訳『フランス語で読もう〘異邦人〙』(第三書房)の著者、柳田文昭氏の正しさが浮かび上がる。そこには「犬がこんなことになってお気の毒に思います」(同書85頁)とあるではないか。これなら、老人が「礼を述べた」としても少しも不自然ではない。逆に、上で指摘した「厭きてしまっただけ」という限定辞は原文にない以上、そこに無理につけたした小細工からは、訳者自身が不自然さを軽減しようと苦慮した心根がむき出しになる。むろん、こんな小細工や気苦労は翻訳機のあずかり知らぬことだが。
 一見、重箱のすみを楊枝でほじくるような話になってしまった。しかし、日本語との対応関係で複雑さをかかえる仏単語は少なくない。英仏両語は昔から関係が深く、共通の語源をもったり、英語から導入された仏単語や、逆に仏語から導入された英単語があったりする。ところが、その後、それぞれ独自の使われ方をしたため、語義に違いが生じる場合が出てきた。これを言語学ではfaux amis「(見せかけだけの友人→)フォーザミ、同型異義語」と呼び、Dictionnaire des faux amisと名乗る辞書まである。ごく大雑把にいえば、英語のcoupleと仏語のcoupleはイコールではない、これを証拠をあげて示す辞書なのだ。
 フランス語と日本語の間にそんな親密さはないことは当然で、私たちも初めての土地を訪ねるように警戒して臨んでいる。ところが、すこしなじんでくると油断が生じて、両語の単語がたがいに1対1の関係で向きあっているかのような錯覚に陥ることがあり、それが往々にして誤訳のもとになる。今回とりあげたennuyerもその一つだが、類例はたくさんある。くれぐれも用心しよう。

 
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