朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
ランボーの詩を読む(3) 2021.10エッセイ・リストbacknext

トーテムポール
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 前号で取りのこした「忘我の船」第1節の後半2行の和訳からはじめよう。重複をかえりみず、前半をふくめたテクストをかかげ、奥本訳を添える。特に注目してほしい箇所に下線を引いた。  

 Comme je descendais des Fleuves impassibles,
 Je ne me sentais plus guidé par les haleurs :
 Des Peaux-Rouges①criards les avaient pris pour cibles
 Les ayant cloués nus aux poteaux de couleurs②.

 「無感動の河を流れ下っている間(ま)に、
 気がつくともう、船曳きどもに導かれている感覚も失せていた。
 けたたましく叫びたてるインディアンら①は、彼らを捕え、標的にして
 衣類を剥ぎ取り、すでにトーテムポール②に釘付けにしていたのだ。」

 比較のため、粟津則雄訳「酔いどれ船」の該当箇所を引く。

 「かしましい赤肌の蛮人ども①が船曳きを的にと捕え、
 色とりどりの棒杭②に身ぐるみぬがして釘づけていた。」

 ①のPeaux-Rougesは英語のred-skinの直訳。一昔前の英和辞典では「北米土人」という訳語が当てられていたから、粟津訳はそれに従ったものにちがいない。しかし見過ごせないのは、「赤肌の蛮人」が北米大陸に上陸した旧大陸人たちの人種差別意識に根ざす蔑称であることだ。昨年7月、黒人男性George Floydが警官に殺害された事件をきっかけに全米でBlack Lives Matter運動が盛り上がったことは記憶にあたらしいが、これを機に、アメリカン・フットボールNFLの球団Washington Red-Skinsは改称を余儀なくされたと聞く。ここでは奥本訳のように直接名指すほかないし、私の見る限り、現行の訳はすべてそうなっている。
 ところで、racismeの問題とは別に、修辞法の観点から①②を並べてみると、ともにtrope「転義法」にからんでいることがわかる。mots propres「的確な語」ではなく、別の語句でそれを指示する表現法だ。たとえば、iceberg(英語由来の語を使う)を知らぬ子供はénorme bloc de glace「巨大な氷の塊」というような言い方をするだろう。語彙の不足ではなく、意図的に直接的な指示を避ける場合もある。MolièreがPrécieuses ridicules『才女気取り』で笑いの種にした「プレシオジテ」がそれで、この考え方を信奉する淑女たちのサロンでは、卑俗な語を避けて、たとえば、pudeur「羞恥」のことをことさらvermillion de la honte「屈辱の鮮紅色」と呼んだ。これは行き過ぎだが、この種の修辞法は詩人の得意とする領分だ。それについては後で触れるとして、もっと日常的に、たとえば新聞記事のなかでもよく見かける。9月6日付Le Monde紙の見出しを例にあげる。
 A Séoul et à Tokyo, la sécurité en question après la chute de Kaboul
 アフガニスタンからの米軍撤退(débacle「潰走」という語が使われている)という事実に直面した結果、アジア地域において防衛の主力を米軍が担っている格好の日韓両国が不安に駆られていることを指摘した記事だ。
 「ソウルと東京では、カブール陥落後、安全保障が問い直されている」
 カブールはそのままでよい。だが、ソウル・東京の方はmétonimie「換喩」(転義法の一種)だから、「韓国と日本では」または「韓国・日本両政府では」と訳す方が日本語にふさわしいかろう。
 すこし回り道をしたが、②の「色とりどりの棒杭」(忠実な訳し方だ!)を一種の転義法表現と見なすなら、奥本氏があえて「トーテムポール」と訳した理由が納得できるだろう。
 「忘我の船」からもう一つ、第19節から別の問題を引き出そう。ここでは色彩の表現が目につくが、特に最後のazur(下線部)に注目してほしい。例によって奥本訳を添える。

 Libre, fumant, monté de brumes violettes,
 Moi qui trouais le ciel rougeoyant comme un mur
 Qui porte, confiture exquise aux bons poètes,
 Des lichens de soleil et des morves d’azur

 「自由のままに、紫の濃い靄(もや)を載せ、煙を吐きながら、
 赤く染まった壁と化した天空に、俺は風穴を開けてやった。
 太陽の苔、青空の青洟(あおばな)が、そこにはべったりと貼り付いていた。
 これこそ、善き詩人の御連中にとっては甘いジャムだ。」

 「善き詩人の御連中」は前回取り上げた高踏派のお歴々を指す。先に進む前に、高踏派の総帥Leconte de Lisleルコント・ド・リールの詩篇(詩集『詩と思想』冒頭のA Madame A.C.M.「A.C.M.夫人に」)の一部を見てみよう。彼は仏領Réunion島に生まれ、火山を背にインド洋を望む町Saint-Paulで育った。ここには前述の転義法によって、故郷の風景が回想されている。

 La montagne nageait dans l’air éblouissant
 Avec ses verts coteaux de maïs murissant,
 Et ses cônes d’azur, et ses forêts bercées
 Aux brises du matin sur les flôts élancées
 Et l’île, rougissante et lasse du sommeil
 Chantant et souriant aux baisers du soleil.

 「山はまぶしいばかりの大気のなかを泳いでいた。
 実ったトーモロコシに覆われた緑の丘陵や
 蒼くそびえる円錐丘や、突進する波の上を渡ってくる
 朝風をうけてそよいでいる森と一緒に。
 そして、島は、噴火の赤みを帯び、眠気が覚めぬまま、
 太陽のキスを受けて、歌をうたい、笑っていた。」


レユニオン島 ※画像をクリックで拡大
 辺りは山も海も、熱帯の陽光を浴びて、青々と輝いている。一方、ランボーは生まれてこのかた海を見た経験がないまま、本で得た知識のみで「忘我の船」を書いたと言われる。彼にはこの詩が何とかけ離れて見えたことか。むろん相手はこの作者や、ましてこの詩篇に限るまいが、詩の革新を目指す17歳の若者がむしゃくしゃして、嘲弄したくなったとしても不思議はないように思う。
 さて、こんな前提にたって、「忘我の船」第19節の最後の2行---奥本氏は「なんともキタナイ」と評するのだが---について氏が展開した解説を読むとしよう。
 「そもそも「アズュール」という語は、ルネッサンスの頃にイタリアから輸入されたもので、南国イタリアの明るい陽光と、それにまつわる輝かしいハイカラ文明の象徴としてもてはやされた歴史を持つ。しかし、そんなものは、もはや陳腐だ、とランボーは切り捨てる。<...>
 上品な表現を重んじてきた詩の世界に、あえて汚らしい語彙を持ち込むのである。「腐肉charogne」を描写したボードレールより、青洟などと、ランボーはある意味で、もっと思い切った表現をしているという気がする。<...>
 夕映えの照り映える壁と化した詩の世界に、自分は風穴を開けてやった、というのだ。」
 「忘我の船」の革新性の一端が露わになったところで、今回は終わる。



 
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