皆さんも気づいておられるにちがいない。フランス語のなかに英語の単語がどんどん侵入してきていて、それにフランス政府が神経をとがらせている。
身近なところから、「ウォークマン」の場合を例にあげる。シャンゼリゼー通りを走っている車中で、盛田社長令嬢が父におねだりした注文から生まれたというソニーのヒット商品だが、発想が奇想天外なのとはうってかわって、いかにも日本の企業らしく命名は英語風だ。社名とおなじく商品名にも和製英語(前者はsonicでもsonantでもない。後者はwalker でもwalking manでもない。とすればnighterのような造語というわけだ)をつかってはばかるところがないばかりか、むしろ得々としている気配さえ感じられる。
ところが、フランス側の対応はそれほど安直に英語風になびくでもなければ、輸入文化に飛びつくでもない。プチ・ラルース辞典をひらくと、これはブランド名だと断ったうえで、baladeurという仏語におきかえてある。念のためにいいそえると、元になっているのは動詞se balader「ぶらつく」。それからできた形容詞、名詞baladeurは「散歩好きな[人]」をさす。蛇足だが、詩や音楽でいう「バラード」はballadeと綴り、別の語である。むろんフランス人だって、現実には小型の携帯用ヘッドフォンステレオ一般をさしてwalkmanと呼ぶほうが多いにきまっているのだろうが、公的にはそうした英語的語句の横行を認めたくないのである。
類似の例は近年増える一方だ。とくにいちじるしいのはIT技術関連の語。internet(international networkというアメリカ産英語の略語)もWeb(la Toileという言いかたもあるにはあるが)もいまや完全にフランス語になってしまった。ひと頃はいちいち異をたてて、software/hardwareではなく、ことさらlogiciel/matérielの使用を政府が推奨するというような雰囲気が強かったようだが、いまではsoftやhardのような短縮形も堂々と辞書にのっていて(かならずしもコンピュータ用語とはかぎらないが)、フランス側の抵抗はむなしくおわったというべきだろう。
われわれ日本人から見れば、この「侵略」は時の勢いであり、黙って受けいれるしかない。しかし日本語とちがって、フランス語は栄光の過去をもち、18世紀にはかつてのラテン語のようにヨーロッパ世界を支配した言語である。当時の厚顔ぶりはAntoine de Rivarolの名句が示すとおりだ。名高い前半につづく、後半にも目配りを怠るまい。
CE QUI N’EST PAS CLAIR N’EST PAS FRANCAIS;ce qui n’est pas clair est encore anglais, italien, grec ou latin.
「明晰でないものは、フランス語[的]ではない。明晰でないものは、まだ英語、イタリア語、ギリシア語、またはラテン語[的]なのである」
この誇りにくわえて、英仏関係ということになると、前回のべた歴史的な因縁がからむ。べつにフランスの肩をもつわけではないが、英語の受けいれに神経質になる事情の一つに、両言語の複雑な貸し借りの実態があることを指摘したい。
interviewという英語がある。「会見、面会」の意味だが、特にマスコミ関連では「インタビュー」といわないとピンとこないくらい、日本語として定着してしまっている。フランス語でも事情は同じで、「取材訪問」「会見記事」の意味ではこの英語がつかわれ、interviewerという動詞やintervieweur, intervieweuseのような名詞が派生してもいる。ところが厄介なのは、そこから先で、英語のinterviewの語源をしらべると、なんのことはない、フランス語のentrevueに行きつくのである。これは辞書をみてくれればわかるように、歴としたフランス語で「会見、面談」の意味で日常的に使われている。となると、「自分の足元をしっかり見つめていさえしたら、英語から借りなくても用が足りたではないか。もっと自国語を大切にしよう」-----フランス人の側がそういう反省にたつのも無理からぬ、と思うのだが、いかがなものか。 |