朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
リスボン大地震 2011.05エッセイ・リストbacknext

星印はリスボン地震の震源(推定)を示す
 時がたっても東日本大震災の記憶はうすれるどころか、逆に規模の大きさ、衝撃の深さが史上でも群を抜いていること、それが明らかになってくる。その結果、かつて世界を震撼させたリスボンLisbonne大地震を想起する人が多い。そもそも1755年11月1日に起こったこの地震こそ、地震学sismologie 誕生を促したといわれている。その後の研究成果の上に立ち、現在の地震学者たちsismologuesが過去のデータから推測したところによると、問題の地震のmagnitudeは8.5~8.7 sur l'échelle de Richter(日本人には耳なれた「マグニチュード」という語だが、さほど古い尺度ではなく、1935年にアメリカ人Charles Francis Richterが考案したもの)で、震源épicentreはポルトガル最南端サン・ビセンテ岬cap de Saint-Vincent(ポルトガル語ではSão Vicente)の南西約200キロ沖の大西洋海底だったという説が有力らしい。
 海底の地殻変動があった以上、当然、巨大な津波が後につづいた。因みに、このtsunamiは前回の指摘通り日本語の発音がそのままフランス語に転化されたものだが、それはずっと後のことで、ロベール仏語歴史辞典はようやく1927年に始まるとしている。それまではraz-de-marée という言い方しかなかった。それなのに、18世紀のリスボン地震の説明にもtsunamiが当たり前のように使われていることに注意しよう。裏をかえせば、日本は津波国だということが世界的に認知されたわけだ。その津波国の海岸に、放射能の恐ろしさには世界一敏感なはずの被爆国日本が、なぜ原子力発電所を17か所(54基)も作ってしまったのか。作らせてしまったのか。悔やまれる話だ。原発関連の報道につれてFukushimaが外国人にもなじみの地名になっていく。それと同時に、私たちが津波にも原子力にも十分な備えを怠ってきたこと、肝心要の論議をなおざりにしてきたこと、そんな恥ずかしい内情が世界中にさらけ出されていく。
 18世紀のリスボン地震に戻る。津波はリスボンの港湾施設と都心部とを壊滅させたばかりでなく、イベリア半島最大の河le Tage(タホ河、テージョ河)の上流まで荒らした。リスボンは混乱の最中に大火災にも見舞われ、その火は5日間燃えつづけた。その結果、これら災害による死者はアフリカの分まで含めると5万から10万に達したという。
 要するに、天変地異の恐ろしさを人類に見せつけたという意味では今回の震災に肩をならべることになるが、さらに興味をひくのは、大陸貿易で隆盛を極めていたポルトガルがこれを機に衰退したとする見方さえあることだ。歴史家の川北稔氏は、地震が没落の直接の契機だとするのは短絡だが、その前から萌していた低落傾向が大災害で促進されたことは否定できないという(4月7日付朝日新聞朝刊)。
 だとすると、ここには日本の将来が予言されているのではないか、「中国に追い越され」世界経済での地位が揺らぎはじめた矢先に未曾有の地震と津波が起こったのだから、日本もポルトガルと同じように衰退期にはいるのではないか。こう考えたくなる人がいても不思議はない。その上で、川北氏は「東洋のポルトガルになるのも悪くはない」と述べて、「成長一点張り」からの方向転換を主張する。わたしも個人的にはそれに賛成だが、それはそれとして、ここはフランス文学に目を転じて、同時代の文豪Voltaire(1684-1778)が災害をどう受けとめたか、を紹介することにしよう。

ヴォルテール


 彼は若いころから才能を発揮して戯曲『エディップ』OEdipe、『ザイール』Zaïre、評論『哲学書簡』Lettres philosophiques、歴史書『ルイ14世の世紀』Siècle de Louis XIV、小説『ザディーグ』Zadigなどで文名をあげ、社交人・宮廷人としても華々しく活躍し、ヨーロッパ中に哲人として名を轟かせた。しかし、彼の大胆な自由思想がフランス王ルイ15世Louis XVやプロシア王フリ-ドリッヒ2世Frédéric II le Grandに容れられるはずはなかった。地震の当時はルイ15世から国外退去を命じられ、スイスのジュネーヴGenèveの「楽園館」les délices(付言するが、ヘブライ語の「エデン」は délices「悦楽」の意)に幽棲していた。
 地震の第一報は11月24日に届き、死者はリスボンだけで10万に達すると伝えられた。事態の深刻さに興奮したヴォルテールはさっそく筆をとって長編詩『リスボンの災厄に関する詩』Poème sur le désastre de Lisbonneを書き、翌1756年3月に発表した。初稿は年内に出来上がったが、そのあと数回にわたり書きたされて、12音綴の詩句は最終的に234行に達した。
 とりあえず、書き出しの部分を以下に引く。押韻のため語順が変わっていることに注意。カッコの中に本来の語順を示した。(太字の指示は朝比奈)

 O malheureux mortels! ô terre déplorable !
 O de tous les fléaux assemblage effroyable !(assemblage effroyable de tous les fléaux)
 D'inutiles douleurs éternel entretien ! (éternel entretien d’inutiles douleurs)
 Philosophes trompés, qui criez, tout est bien,
 Accourez ; contemplez ces ruines affreuses,
 Ces débris, ces lambeaux, ces cendres malheureuses,
 Ces femmes, ces enfants l’un sur l’autre entassés,(...entassés l’un sur l’autre)
 Sous ces marbres rompus ces membres dispersés ; (ces membres dispersés sous ces marbres rompus )

 「ああ、不幸な人間たちよ!哀れな大地よ!
 ありとあらゆる災厄の恐るべき集合体よ!
 無益な苦悩に満ちた、永遠につづく対話よ!
 <全ては善である>と叫ぶ、誤った哲学者たちよ、
 現地に駆けつけて、よく見るがいい。
 この残骸の山を、この瓦礫の山を、この不幸な遺骸の山を
 折り重なって横たわるこれらの女たちを、これらの子供たちを
 折れた大理石の柱の下敷きになって散らばるこれらの手足の山を」

生々しい災害地の描写がくどいほど出てくるが、どうやら、当時の文献に見られる文言を生かしたらしい。ただし、太字の部分はVoltaire独自の描写である。いったい何を意図してこんな文句を割り込ませたのか、その説明は次回にゆずるが、今から、この詩の表題にはou examen de cet axiome, tout est bien「または、<全ては善である>という原理の批判」という副題がついていることだけは明らかにしておこう。

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