朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
ファーブルの『昆虫記』 2018.1エッセイ・リストbacknext

ジャン=アンリ・ファーブル ※画像をクリックで拡大
 昨年暮れ、親友奥本大三郎君がJean-Henri FabreのSouvenirs entomologiques 『昆虫記』(直訳すれば「昆虫学的回想記」だが、大正時代に翻訳を思い立った大杉栄以来、「昆虫記」の名で親しまれている)の翻訳で菊池寛賞を受賞した。65回の今回まで、 Donald・L・Keene(今では日本に帰化してドナルド・キーン)とEdward・G・Seidenstickerの「英訳」が授賞の対象になっただけで、「和訳」ははじめてのこと。全10巻20冊を30年がかりで翻訳し、原稿用紙は1万枚に達した由。同時にスケート選手の浅田真央さんが受賞したが、この賞の性格上、審査員が注目したのは、彼女の栄光の陰にある過酷な鍛錬の厚みだったにちがいない。むろん安易な比較は禁物だが、奥本君の苦労も並大抵ではなかったろう。ここでは、仏文和訳という観点から、その苦労の一端をのぞいてみよう。
 てはじめに虫の名前のこと。わずかでも翻訳を体験したことのある人なら、フランス語の虫の名前を日本語にすることの難しさをご承知だろう。
 たとえばmouche bleue de la viandeの場合、奥本訳に先行して戦前から邦訳『昆虫記』の世界を独占してきた岩波文庫版(山田吉彦・林達夫訳)は「肉のくろばい」(第20分冊、38頁)という訳語をあてる。仏和辞典を見ると、mouche bleue「青蝿」(クラウン)、mouche bleue [de la viande]「肉蝿」(スタンダード)、「アオバエ、オオクロバエ」(ロワイヤル)、「オオクロバエ」(ロベール大仏和)とある。
 これに対し、奥本訳はどうか。ご存知の方も多かろうが、彼は子供のころからの虫好きで、膨大な標本のコレクションをもとに私設のファーブル昆虫館「虫の詩人の館」を建て、NPO日本アンリファーブル会を興したほどの凝り性、虫の名前をおろそかにするはずがない。はたせるかな、上記のどれとも違って、「ミヤマクロバエ」とあり、詳細な訳注には、学名、分類はもとより、「頭部と胸部は灰色、腹部は金属光沢のある金青色。」とか、「世界中に分布するが、日本でも山小屋の便所などで大発生することがある。」(第10巻下、99ページ)と至れり尽くせり。(上記の1万枚中、訳注原稿は3千枚に及んだ由)
 さらに「虫好き」の本領がはっきり翻訳に発揮されている場合がある。その一例が原作第10シリーズ18章の表題Un parasite de l’asticot。岩波文庫は「はい蛆の一寄生虫」とそのまま訳出しているが、奥本訳は「コマユバチ」とした。訳注には「ファーブルは、このコマユバチに関して形態をあまり詳しく描写していない。学名も記されていないので、日本からユーラシア大陸西部まで分布し、ハエの囲蛹(いよう)に寄生するDocnusa属の一種と推定するしかない。」と釈明したあと、日本産同属の一種の標本図を示すという徹底ぶりだ。さらに「すべての昆虫には、一種以上の寄生バチが関わっている」という説を紹介し、「もしそれが事実であるならば、昆虫の種類数は現在知られている数の、ほとんど倍以上あることになる。」とした上で、寄生バチの存在が「寄生される昆虫」の過剰な繁殖にともなう自滅を防いでいる、と説くにいたる(前掲書、166頁)。この自然哲学はまさにファーブル直伝というべきだろう。注の形で、原作を逸脱するように見えて、実は原著者の考え方をいっそう深化、発展させている。翻訳者の鑑ではないか。
 肝心の訳文の話に移る。原作者と一体化して、その心を日本語として表現する、この態度は訳し方ににじみ出ている。つぎの原文を見ていただきたい。
 この前段で、ファーブルは(le) venin du Scorpion languedocien et son action sur les insectes「ラングドックサソリの毒と、それが昆虫におよぼす影響」の研究に没頭していた。サソリの毒を注射器で甲虫のさまざまな部位に注射して、その効果を調べようとするうち、1ダースばかりのスカラベ・サクレを殺してしまう。毒の効果でつぎつぎに死んでいく甲虫の断末魔の模様を克明に記述する。その直後に、ふと我にかえって、書く。
 En mon métier d’interrogateur des bêtes et par conséquent de tortionnaire, rarement j’ai vu telles misères. Je m’en ferais un cas de conscience si je n’entrevoyais que le grain de sable remué aujourd’hui peut un jour nous venir en aide en prenant place dans l’édifice du savoir. La vie est partout la même, dans le corps du bousier comme dans celui de l’homme. L’interroger chez l’insecte, c’est l’interroger chez nous, c’est s’acheminer vers des aperçus non négligeables. Tel espoir m’absout de mes cruelles études, en apparence puériles, en réalité dignes de sérieuse consideration.(Jean-Henri Fabre:Souvenirs entomologiques Ed.Yves Delange,Bouquins, pp.1029-1030)

奥本訳「ファーブル昆虫記」 ※画像をクリックで拡大
 奥本訳の特色を浮き彫りにするため、岩波文庫の訳をまず示す。
 「商売は虫の訊問家、従って虫の拷問屋だ。その私にもこんなひどい有様は滅多に見られない。もしも今日掘り起した砂の一粒が、やがて知識の殿堂に席を占め、我々を助けてくれるかも知れないと思わなかったら、私は心がとがめたことだろう。生はどこでも、糞虫 の体の中だろうと、人間の体の中だろうと同じだ。虫を訊問することは人間を訊問することだ。それはなおざりに出来ぬ発見へ、一歩を進めることだ。こんな希望が、私の惨酷な研究の罪滅ぼしをしてくれる。それは一見子供だましのようであっても、本当は真面目な、考慮に値する研究なのだ。」(前掲書、80ページ)
 一見、無難に訳されているようだが、通り一遍で、血が通っていない。奥本訳はそれを 教えてくれる。彼は独自の判断で段落を切り、噛んで含めるように訳している。
 「私は虫に物を尋ねる仕事をしているので、やむをえずというか、結果的に連中を拷問にかけることになるのだが、そんな私でさえ、これほど悲惨なありさまはめったに見たことがない。
 もしも今日、私が揺り動かした知識の砂粒が、知の建築物の中に組み込まれてその位置を占め、いずれわれわれの研究を助けてくれることになるだろう、とかすかにでも思うのでなかったら、こんな可哀想なことをして・・・、と、私は良心の呵責を覚えたことであろう。
 生命は、糞虫の体内であろうと人間の体内であろうと、すべて同じものである。だから、昆虫の生命を探るということは、われわれの生命を探ることなのであって、決して無視できぬ重要な知見を得るために歩みを進めることなのだ。
 こういう希望が私の残酷な研究の罪滅ぼしになる。それは、いっけん子供っぽいことのように思われるけれど、その実は真剣に考えるべき問題なのである。」(前掲書、149-150頁)
 紙面の関係で、細かな指摘は省く。虫好きとして、原作者に自分を重ねていることが読み取れるだろう。原著はまさに最適の訳者を得たと言わなくてはならない。
   
 
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