朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
ふたたび、ファーブル 2018.2エッセイ・リストbacknext

ヨーロッパツチボタルの雌成虫 ※画像をクリックで拡大
 前回は『昆虫記』の奥本訳の特色を強調しているうちに、原著者ファーブルにふれる紙面がなくなった。今度は原著者に注目したい。とりわけ、自然、とりわけ昆虫の観察を通じて培われた自然への畏敬の念に的をしぼろうと思う。
 一つは昆虫が獲物の昆虫に麻酔をかける話。そもそも、いろいろなハチが幼虫の食物を生きたまま捕まえようとして麻酔をかける場面が『昆虫記』にはよく出てくるのだが、ここではホタルが餌にするカタツムリに麻酔をかける。因みにファーブルが対象としたツチボタルlampyreは陸生種(日本の水生種と幼虫期の生活環境が異なる。世界的には陸生種が普通だと、訳註は指摘)、しかも、弱々しい光から受ける印象とは裏腹に、肉食で、カタツムリを襲うことに驚かされる。それはともかく、本題にはいる。
 Voici maintenant une humble bestiole qui pratique au préalable l’anesthésie de son patient. La science humaine⑴ n’a pas en réalité inventé cet art, l’une des merveilles de la chirurgie actuelle. Bien avant, dans le recul des siècles, le Lampyre et d’autres apparemment le connaissaient aussi. La science de la bête⑵ a de beaucoup devancé la nôtre; la méthode seule est changée. Nos opérateurs procèdent par l’inhalation des vapeurs venues soit de l’éther, soit du chloroforme; l’insecte procède par l’inoculation d’un virus spécial⑶ issu des crocs mandibulaires à dose infinitésimale. Ne saurait-on un jour tirer parti de cette indication? Que de superbes trouvailles nous réserverait l’avenir, si nous connaissions mieux les secrets de la petite bête!(Jean-Henri Fabre:Souvenirs entomologiques, Bouquins, p.1074)
 「そして今ここにも、どうということもない虫で、まえもって患者に麻酔を施しておく者がいるのである。すなわち、現代の外科学における驚異のひとつ、この麻酔術は実際のところ、人間の科学が発明したのではなかった。それよりはるか以前、数世紀もまえから、ホタルその他の虫は、どうやらこの方法を知っていたのだ。虫の知恵はわれわれの科学よりずっと先んじていた。麻酔の技術だけが変わったのである。人間の麻酔医はエーテルやクロロホルムなどの蒸気を吸入させてから手術に着手するけれど、ホタルは大腮の牙から出る特別な毒をごく微量注射したあとで手術をするのである。いつの日にか、人間がこれを麻酔術のヒントとすることはできないものであろうか。われわれが小さな虫の秘密をもっとよく知ったなら、未来にはどれほど素晴らしい発明発見が用意されていることであろう。」(奥本大三郎訳『ファーブル昆虫記』第10巻下、315頁)
 仏文下線部に注目。⑴は訳文にあるように「人間の科学」であって、⑵の「虫の知恵」(「科学」はなじまない)と対比されている。いわゆる「人文科学」に対応するのはles sciences humainesであることに注意。要するにscience「知恵」はsciences「学問、科学」より先にあったのだ。ファーブルはその順序の後先をわきまえた「科学者」だった。人間がこの原点にかえれば、平和を守ると称して大量殺戮兵器の生産に狂奔したり、害虫を駆除するために人間の健康を阻む農薬を開発したりする「科学者」はいないはず。今の世界を見たら、ファーブルは何というだろう。
 他方、⑶が「特別な毒」と訳されていることにも注意しよう。後で触れるが、ファーブルは「ウイルス」はおろか「細菌」の存在に懐疑的だった。とすれば、virusはラテン語の借用であって、「①樹液;果汁;体液②毒③辛辣さ」の意味でしか使われなかったことになる。読書にあたっては、語義の時代的な変遷に気を配らねばならない。
 もう一つは、顕微鏡に対する警戒心だ。前号で紹介したように、ファーブルは甲虫に及ぼすサソリの毒の影響を調べる過程で、甲虫のほかガの体が腐敗することに気づいた。その原因は何か、そこに、こんな記述が出てくる。
 L’occasion serait belle de parler ici microbes et bouillons de culture. Je n’en ferais rien. Sur les confins brumeux de l’invisible et du visible, le microscope m’inspire méfiance. Aisément il remplace l’oculaire du reel par celui de l’imaginaire; complaisamment il montre aux théories ce qu’elles désirent voir. D’ailleurs le microbe étant trouvé, s’il y a lieu, la question serait déplacée, mais non résolue. Au problème de l’écroulement de l’organisation par le fait d’une piqûre, en serai substitué un autre non moins obscur. De quelle façon ledit microbe amène-t-il cet écroulement? Comment agit-il? En quoi réside sa puissance? (同、p.1030)

ファーブル博物館「虫の詩人の館」(東京都文京区) ※画像をクリックで拡大
 「これは微生物と培地のことを語るのにいい機会であろう。しかし私はそんなことはすまい。目に見えるものと見えないものとの曖昧な境界に関していうと、顕微鏡というものを、どうも私は信用する気になれない。顕微鏡は、実際に見えるものを、想像力によって見えるものに、たやすく置き換えてしまうのだ。つまり、顕微鏡は理論が見たいと望むものを気前よく見せてくれるのである。
 それに、微生物が見つかったとしたところで、論点がずれるだけで問題は解決しない。注射をすることによって体の組織が崩壊してしまうという問題に、それに劣らず難解な別の問題がとって代わるのだ。その問題とはつまり、この微生物はどのようにそういう組織の崩壊を引き起こすのか。それはどんな具合に振る舞うのか。その効果をもたらす力は、いったい何のなかに存在するのか、というものである。」(同、151-152頁)
 これに関連して、ファーブルが死毒ptomaine(今では否定されている)を原因と見る考え方に立ち、Pasteurのgénération spontanée「自然発生説」の否定(1860-1862年)やKochの結核菌の発見(1882年)以前の認識に止まっていたことを奥本君は指摘している。
 それはこの南仏の虫好きの限界として認めざるをえない。その上で、わたしとしては下線部分に注目したい。「顕微鏡は理論が見たいと望むものを気前よく見せてくれる」という指摘は、数年前の理化学研究所や、最近京都大のIPS細胞研究所で起こった論文のデータ捏造や改ざん事件の背景を的確に予告していたことを示すだろう。顕微鏡が電子顕微鏡に進歩し、「見えるものと見えないものとの曖昧な境界」がどれほど鮮明になったところで、そうした器具を操作する人間に変わりはない。後者の論文執筆者は日本循環器学会の学会賞のうち最優秀賞を受賞したというのだが、もちろん受賞の取り消しや賞金の返還ですむ問題ではない。今一度、ファーブルの純な探求姿勢に立ち返ることを切に望みたい。
   
 
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