朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
落ち込む 2020.10エッセイ・リストbacknext

コロナ対策のポスター
 コロナと聞けば、いまや誰もがウイルスのことと受け取ってしまう。少し前までは太陽コロナのことだった。コトバは生き物で、どんどん変貌していく。もう一つ例をあげれば、コロナ禍のせいもあり、よく耳にする「落ち込む」という語の場合がそうだ。ネットで検索したら、「落ち込んだときの対処法を100人の女性に聞きました」とか「気分が落ち込む:こころのSOSサイン…」とか、要するに「滅入る」という意味での用法のみが圧倒しているではないか。そんな狭い意味の語ではなかったはずと、紙の辞書として標準的な「岩波国語辞典」を引いた。あらためて、驚きがひろがるとともに、興味がつのった。
 そもそも第三版(1979年)には「落ち込む」という項目そのものがない。特に取り上げるに値しないという編者の判断がはたらいたのだろう。それ以前に出た三省堂の「新明解国語辞典」第二版(1974年)には載っているから、岩波国語辞典の慎重さの反映なのかもしれない。ただし、新しい意味に敏感に反応する「新明解」にしても<①穴・水などの中に落ちる。②回りと比べて、その部分だけが著しくくぼむ。ひっこむ。③(業績などが)急に下がる。>としているだけで、上記の「滅入る」の意味には触れていない。この用法はこの時点ではまだ世に広まっていなかったと考えるべきなのだろう。
 岩波国語辞典は第四版(1986年)になって漸く見出し語として採用し、<①穴・池などに落ちる。②悪い状態になる。「売り上げが――」。気分が沈む。③まわりよりも低くなる。くぼむ。「目が――」。>と説明する。さらに第八版(2019年)になると、第四版の②の後半を③として独立させ、<転じて、気分が沈む。めいる。「愛犬が死んで――んでいる」▷③は一九七〇年ごろから。…>と記述を拡張して、語義の変化を前面にだす姿勢を一段と鮮明にした。
 和仏辞典に目を転じよう。G.Cesselin師(1873-1944)の労作として知られる「和佛大辞典」Dictionnaire japonais-français(1940年、丸善書店;;手元にあるのはMEISEISHAの1957年再版)には、第二次大戦前の執筆であるのに、立派にochikomu(落込む)という見出し語があり、つぎのように記述され、例文も添えられている。
 ochikomu 1 Tomber dans, s’enfoncer 2 Se creuser, se déprimer 3 Venir dans Ochikonda me(---目)Des yeux caves Jishin no tame ni jimen ga ochikonda(地震の為に地面が---)Le tremblement de terre a occasionné une dépression de terrain
 「スタンダード和佛辞典」(1970年、大修館書店)は見出し語のローマ字をひらがなにし、語義分類を明確にした点は画期的で、フランス人の利用者には有効な措置だったろう。ただ訳語の面では、ほとんどセスランの引きうつしで、むろん「滅入る」への言及はない。
 「プチ・ロワイヤル和仏辞典」(1990年、旺文社)は編集委員が若返っただけあって、内容を一新している。特に主語との関りを明示した点は一つの見識だろう。その線上で、問題の「滅入る」も用例の一つとして特別の位置を与えられることになった。
 おちこむ 落ち込む ¶収入が落ち込む Le revenu baisse. //景気が落ち込む Le marché est en perte de vitesse. ║失恋して落ち込む être déprimé(e) par chagrin d’amour
 フランス語との対応関係で注目されるのは、déprimerが、代名動詞や過去分詞を含めて、3辞典に共通して出ていることだ。さらに言えば、この動詞が前の2辞典では、地面や目のような「物」の外形に関連して、物理的に「落ち込む」「くぼむ」場合を指していたのに対し、「プチ・ロワイヤル」では、「人」を主語とした心理的な用法に変わっていることだ。
 この変化についてはDictionnaire historique de la langue française (Le Robert 1992, 1998,2006)「フランス語沿革辞典」を参照するのが手っ取り早い。
 これは、単語の語源から現代の用法まで、その通時的な変化をたどることを趣旨とする辞書。まず1340年にラテン語からの借用でできたdeprimereが原型だとされる。abaisser「下ろす」enfoncer「さしこむ」、比喩的にrabaisser「(物の価値を)低める;(人を)おとしめる」がもともとの意味だった。その上でこう綴られる。

ルドン「沼の花、悲しげ な人間の顔」
 Le mot a été introduit en anatomie avec le sens physique d’ « enfoncer, affaisser ». Il est plus courant avec le sens figuré d’ « abattre, affaiblir »(1380), avec lequel il a supplanté l’ancient type populaire prendre(1170) « abaisser, humilier ». La valeur actuelle du verbe est psychophysiologique.
 「この語は<さしこむ、押し下げる>という物理的な意味で解剖学に取り入れられた。日常的には<打ち倒す、弱くする>の意味で使われ(1380年)、その意味の語としては、古くから通俗的に使われていた<下げる、辱める>という意味のprendre(1170年)に取って代わったのだ。この動詞の現行の価値は精神生理学的だ」
 つまり、「落ち込む」とse déprimerとの歴史的(通時的)な価値(=語義)変化は日仏両語で共通することが窺える。次の記述はさらに興味深い。
 Cette valeur est partagée par ses participes adjectivés DEPRIMANT, ANTE(...), devenu usuel au XXe s. pour qualifier ce qui cause un abattement moral et DEPRIME, EE. Ce dernier, attesté en psychologie après dépression pour qualifier une personne en état d’abattement et d’asthénie(1883), est substantivé pour désigner la personne en état de dépression(1897).
   「この価値は形容詞化した現在分詞<意気消沈させる>と過去分詞<落ち込んだ>に共有されている。前者は20世紀になって慣用化され、気分の落ち込みを引き起こすものを形容することになった。後者は落ち込んで無気力状態になった人を形容するために、<鬱病>につづき、心理学で認められるようになった語(1883年)で、名詞化されて、鬱病状態の人を指す(1897年)」
 どうやら「落ち込んだ」人を問題にする傾向は日本に限らないようだ。共時性を確かめたところで、本稿を閉じるが、「落ち込む」というとわたしの意識に蘇るのは、Odilon Redon(1840-1921)の一連の版画のこと。1点を掲げて、サインの代わりにしたい。
 
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