朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
ランボーの詩を読む(1) 2021.7エッセイ・リストbacknext

Rambo
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 先日FABLESと記された表紙の本をテーブルにおいたら、店員が「昆虫記」ですね、と話しかけてきて驚いた。すぐに謎は解けた。日本人の耳は[l]と[r]の区別ができない。彼女は「ファーブル」はJean-Henri Fabreのことと解し、その著書Souvenirs entomologiques『昆虫記』を連想したのにちがいない。私はLa Fontaineのfables「寓話」を読んでいただけなのに。
 裏を返せば、「昆虫記」の名は我が国ではそれほどまで知れわたっているということだ。そして、それに貢献したのは訳者の奥本大三郎氏。その功績で菊池寛賞を受賞したことは周知のとおり。今度その奥本氏が同じ集英社からランボー論を出版したのだが、著名な彼でさえ刊行に漕ぎつけるのは容易ではなかったらしい。本の冒頭に書いてあるのだが、「ランボー」と聞くと、現代人はSylvester Stallone演じるRamboを思い浮かべる。仏文学は魅力を失い、ましてやArthur Rimbaudという詩人を知る人はきわめて稀。私の学生時代は、仏文科は人気が高く、ランボー崇拝者を全国からごっそり集めたものだったが、今はまるでご時世が違う。
 そこで、数多くの工夫がこらされた。表題を『ランボーはなぜ詩を棄てたのか』とセンセーショナルな疑問体にして、気を引いた。著者は「最近は『失敗の研究』というようなことが流行っているそうだから、『ランボーにおける失敗の研究』という意味でも、本書を読めば何かの参考になるかもしれない」と誘ったあと、「ただし、このまねは誰にもできまい」と梯子を外している。
 表題だけでは不足とみたか、帯には「フランスの天才詩人は、何に躓いたのか?」という疑問文が記され、甲本ヒロト氏の「聞こえるぞ19世紀のロックンロール」という文句が添えられている。恥ずかしながら私は知らなかったが、甲本さんはロックンロール界の大御所らしい。本書は大御所のお墨付きを得て、ロックンロールを聴くつもりで読め、とばかり、檄がとんだわけである。
 おまけに詩の翻訳という難題がある。二部に分れた本書第一部第一章は「日本におけるランボー」と題され、小林秀雄、中原中也らの仕事が紹介される。だが、その前に「外国語の詩の翻訳は、それだけでは詩の作品としてはめったに成功しないものである」「原詩の意味するように思われるところをやっとのことで日本語に移した御本人は、達成感があって大満足であろうとも、原文に触れていない読者にとっては、ただの読みにくい、たどたどしい、奇異にすぎないということが起きる」という悲観論が示される。その上で著者は「なんとか、他人が読む気のするように、ランボーの作品の配列に注意を払い、なぜ彼がこんなものを書いたのか、背景に何があるのかを、解説を加えながら、詩人の生涯と結びつけてみようと思う。引用する詩句は自分で訳す。もちろん、私の頭の中には、原詩の残響があって、訳詩の拙さを絶えず本能的に補っている」と翻訳者の辛い立場を正直に認めつつ、読者本位を目指すと強調している。
 前置きが長くなったが、ここではこの新書(270頁)を読んで、自分なりに感銘を受けた点を述べて、詩をテクストにした時の対処法に役立てたいと思う。
 まずは初期詩篇について、「なるべく口調のよい翻訳に仕上げることを心がけた」という著者の言葉を、16歳の若さで書いた韻文詩、Sensationを例にして確かめたい。
 Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers,
 Picoté par les blés, fouler l’herbe menue :
 Rêveur, j’en sentirai la fraîcheur à mes pieds.
 Je laisserai le vent baigner ma tête nue.

 Je ne parlerai pas, je ne penserai rien :
 Mais l’amour infini me montera dans l’âme,
 Et j’irai loin, bien loin, comme un bohémien,
 Par la Nature, --- heureux coome avec une femme. (Mars 1870)

 比較のため、まず中原中也訳を引く。(カッコ内はルビ)

  「感動
 私はゆこう、夏の青き宵は
 麥穂臑(すね)刺す小径の上に、小草(をぐさ)を踏(ふ)みに、
 夢想家・私は私の足に、爽々(すがすが)しさのつたふを覚え、
 吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう!
 
 私は語りも、考へもしまい、だが
 果てなき愛は心の裡(うち)に、浮びも来よう
 私は往こう、遠く遠くボヘミヤンのやう
 天地の間を、女と伴(つ)れだつやうに幸福に。」

  中也らしい軽やかさが感じられる訳文だが、漢字主体の字面に時代相がにじみ出ている憾みがある。奥本訳はどうか。

  「感覚(サンサシオン)
 夏の青い夕まぐれ、僕は野径(のみち)を歩くんだ。
 麥がちくちくする中を、短い草を踏みにじり、
 夢見心地でずんずんと、そぞろ歩きの爽やかさ。
 帽子も被らぬ髪の毛を、風がさらさら なびかせる。

 なんにも言葉は発せずに、なんにも物を考えず。
 それでも大きな愛情(アムール)が、魂の中に満ちてくる。
 こうして僕は歩くんだ、遠く、遠くと、どこまでも。ボヘミヤンだぞ、この僕は。
 自然の中を独りきり、--だけど女といるように。
                        一八七〇年三月」

Rimbaud ※画像をクリックで拡大
 音読してみるといい。涼風のたつ夕まぐれ、足の感触、風になぶられる髪の毛の感覚、その中をずんずん進んでいく少年の弾むような心身の高ぶり、それらがうまく日本語に移されているのではないか。中也にはなかった「ちくちく」「ずんずん」「さらさら」といった様態語が効果的だ。
その上で、YouTubeで原詩の朗誦を聴くことを勧める。この短詩はLe Bateau îvre「忘我の船」(「酔ひどれ船」と最初に訳したのは、上田敏。それでは酒酔いみたいになる。奥本氏は「酔っている」それも「詩に酔っている」のは「船」自身だと考えた結果、この訳名にした由)と並んで人気が高く、いろいろな朗誦に接することができる。むろん、原詩との差は埋めようがないけれど、フランス語の音になじんだ後で声にしてみると、奥本訳は口調がよく、日本語の詩としても自立し、瑞々しい「感覚」を表現しえていることが納得できるだろう。


 


— 7月号の公開が遅れてしまいました。次回の9月号は予定通りです。—
 
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