1、
お生まれはパリですか?
はい。でも、エンジニアだった父の関係で、ナントやメッツ、ボルドーなど、フランスのあちらこちらで過ごしました。太平洋のタヒチに住んだこともあります。
2、 いつ頃画家になることを選んだのですか?
“絵画に入門”したのはソルボンヌ大学で文学博士号を得てからです。20年前のことでした。私は、子供のころから巨匠たちの絵が大好きでそのとりこになっていました。それで、絵画の古典的な描法を研究するため、ルーブル美術学校に入ったのです。昔から、巨匠の作品を模写するということは、伝統的に行われていることです。
3、
パリやルーブル美術館に多くのことを学ばれたのですね。
パリは芸術家や芸術を愛する者にとっては特別の町ですよ。ルーブル美術館に保存されている宝物の全てが、私の辿ったあらゆる芸術的、精神的な道を豊かにしてくれました。「絵画を発見したこと」から私は自然にイタリアにたどり着いて、ヴェニスやローマ、フィレンツェなどに滞在しながら、絵を学び、絵を描いたのです。まるで18世紀、19世紀の画家たちみたいに、「イタリアの旅」を実行したわけです。
4、
普通の絵画を勉強されてから聖像画(イコン)を書き始められました。それはまたなぜ?
絵画を愛するがゆえに、私は教会へと導かれました。昔はほとんど行っていなかった教会に、です。絵画が、私に、精神的探求心を呼び起こしたのですね。そして、キリスト教正教会に、私はその回答を見出しました。
5、
それでギリシャへいらしのですね。
パトモス島に派遣されました。新約聖書筆記者である聖ヨハネが黙示録を書いた、あの小さなギリシャの島です。そこで私は現代聖像画の権威の一人であった、オランピア修道女の下で学んだのです。パトモスには定期的に戻って精神修養しています。
6、
そしてイコン作家となられた?
いえ、画家として、聖像画家としての生活を始めたのはパリに戻ってからです。東方キリスト教の全精神性を包含する聖像画(イコン)がありますから「神聖芸術」の分野にも入っていったわけです。
7、 パトモス島の《生神女福音(受胎告知)修道院》の『主の降誕』のイコンは、現在の師であるカシアニ修道女が書かれたのですね。
はい。オランピア修道女が亡くなって以来、私はカシアニ修道女に師事しています。
8、 このイコンについて解説してくださいますか?
「主の降誕」祭のイコンの構図は、聖ルカ福音と聖ロマン・メロッド( 6 世紀の賛美歌作者)の「降誕」祭のコンタキオン(賛美歌)の内容が啓示されています。
聖ルカは「彼らがベツレヘムに滞在中、誕生の日が来た。彼女はその第一子、男児を産んだ。その赤子を産着で包み、秣(まぐさ)桶に寝かせた。旅人のための宿泊所に泊まれなかったからだ。」(第2章6−7節)と書きました。イコンの中心に洞窟の中の秣桶と聖母(生神女)が表現されていることが読み取れるでしょう。降誕祭のコンタキオン(賛美歌)には「この日、処女が、超本性を産み、大地は洞窟の中に不可解を宿った」と書かれています。
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ルーブルにて
パトモス島の大修道院
キリスト降誕祭のイコン |