4、ファーニチャー・ペインティングの仕事と、エミー・スー・ローザンのコスチューム、両方をこなしていたわけですね?
Michel Méry
ニューヨーク時代の制作風景 |
ファーニチャー・ペインティングの会社では、その後ディスプレイデザインに部署換えになりました。仕事は好きでしたが、上司がこれまた恐ろしい方で、1年で辞めました。
その後、バーンステイン・ディスプレイ社に拾ってもらい、ディスプレイデザイナーをしていたのですが、グラフィックデザインの素質も認めて頂き、そのうち「なんでも〈萬〉デザイナー」となりました。というのは、店舗内装、店舗什器、空間、展示会・・・等々、バーンステインが必要とする全てのデザインを担当していたからなんです。
その他にも、マネキンのデザインや、マネキンの箱のデザイン、さらに写真撮影もこなしていました。面白かったですよ。
〈お金を稼ぐデザインの仕事〉と、〈お金を稼げないコスチュームデザインの仕事〉を両立させ、2000年には、前年に受注したコスチュームデザインの仕事でスケジュールが埋まってしまい、休日返上で働くほど多忙になりました。平日はバーンステインでの勤務が終わったら夕食はボスと食べて、家に直行でコスチューム縫ってました。今から考えると良くやったと思いますが、いや、今も同じくらい大忙しな日々を送っていますね。
5、いつでもどこでも大忙しですね。とてもアクティブでたくさんの顔を持っているReikoさん。テキスタイル、グラフィック、コスチューム、ウェブ、御自身もダンサー、などなど、色々な活動の共通点はありますか?
共通点は「私であること」でしょうか?
お金にはいつも貧乏していまして、なんか金額が高い仕事が来るたびに「これはお金のためだからやらなくては」と思うのですが、気に入らないと本人は最大の努力をしているのにすぐ無残な失敗に終わるんです。自分が好きなことしかできない人間なんです。というか、自分であることしかできないのが私ですね。
6、 制作のインスピレーションの源はなんでしょう?
さあ、なんでしょう?
自然にやってくるので、源って何かなって考えたことがないです。
インスピレーションが来なくて、いらいらする時期ってのはありますね。でもこれは「待つ」しか方法は無いです。この間は他のことをしながら、たとえば料理に懲りまくるとか・・・気長に待つようになりました。
夫から見ると、ある日突然狂ったように働き出し、ある日突然「冬眠」しだすそうです。私からすると、冬眠はインスピレーションを待つ期間なんですが、外から見るとそんな風に映るようです。
7、 ニューヨークからパリに移住されたきっかけは何ですか?
長い間パリに住みたいと思っていて、母が死んだ年齢と同じ55歳になったらパリに移住しようなんて考えていました。そうしたら2001年に〈9.11〉が起こり、こんなことでニューヨークで死んじゃったら嫌だなと思ったんです。それと同時に、以前にもまして、早く彼の地に行きたいという欲望も強まりました。実は〈9.11〉と同時にフランス人と恋に落ち、結婚し、幸せを手に入れたのです。
その当時、私のクライアントのひとりがヨーロッパ移住計画を立て、コスチュームデザイナーであった私も移住しないかと言われました。
でもその時は「まだ用意ができていない」と答えました。最愛のクライアントであるエミー・スー・ローザンに、最後になるだろう作品を依頼されたのです、「パリに引っ越さないで。仕事があるの。最後になるかもしれない。私は癌なの」って言われて。
私はニューヨークに留まりました。
これもまた同時に父も癌になり、エミー・スー・ローザンと時を同じくして亡くなりました。日本という土地にこだわる理由も無くなったので、日本にある全ての財産を綺麗に整理し、フランスに渡ったのです。
8、 アメリカとフランスでアート業界の雰囲気は違いますか?
渡仏してきた時は、エミー・スー・ローザンと父の死で私は「冬眠状態」になってましたから、まったく人に自分の作品を見せず、ニューヨークのネットワークとも交信しませんでした。活動し始めたのはここ1年の間なんです。
アメリカはチャンスが怒涛のように押し寄せ、フランスではじわじわとやってくるように思います。
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