パリで活躍する素敵な方々にインタビューし、それぞれの「モンパリ」をお聞きします。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
愛する街パリを描き続ける 
その1 赤い線が生まれるまで 2008.11

  “同世代では最も偉大な画家の一人”といわれる赤木曠児郎さん。40年来描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても認められています。1993年パリ市と東京都友好都市提携10周年や、2008年日仏交流150周年の記念行事としても特別展が企画されるなど、日仏を結ぶ文化大使的な存在ともなっている赤木画伯に、渡仏から現在の制作活動に至るまで、パリのアトリエでお話をお聞きしました。

赤木曠児郎(あかぎ こうじろう) さん
1934年岡山市生まれ。岡山大学(物理学科)を卒業後、1963年パリに渡る。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。
フランス芸術家サロンで1971年に水彩、1974年に油彩で金賞、1975年フランス大統領賞他、受賞多数。ファッション記者としても活躍し、フランスモード産業振興の功労ジャーナリストとして、1975年「金の針(ピン)賞」を授与される。1994年と1998年紺綬褒章、2002年海外功労者として外務大臣表彰(銀杯)、2005年旭日小綬章受賞。
サロン・ナショナル・デ・ボザール名誉副会長、各種美術団体会員。フランスと日本を中心に、各地で展覧会を開催。作品は数々の有名な美術館、フランス国家を始めとする公共機関でも所蔵される。

 ■ Interview


 アトリエで、作品を眺めながらお話くださる赤木画伯 。
1、学生時代から絵はお好きだったそうですが、大学は物理学科を卒業されているのですよね。その 7年後にパリにいらっしゃってボザールに入学する、その間の経緯を教えていただけますか?
 物理はもう落ちこぼれちゃって、卒業後はやる気がなかったから…。その時点では絵の道に進むと決めていたわけではないけれど、絵かファッションかどっちかだとは思っていた。それで本場のパリに行って、見てから、決めようと思って。とにかくあの頃は、日本はまだ、何でもヨーロッパから来る時代だから。
 ただ、当時は自由化してなかったから、留学生でないとパリにいられない。でも、給費留学生っていうのは、一般の人は公募しても全然問題にならない。私費留学なら出られる可能性があった。それで、まず東京に出て仕事をして。洋服屋をやっていた。母が洋裁学校をやっているから、家業なんだ。だから、興味は持っているし、見よう見まねで知っているからね。服なんかのデザインが商売だった。僕がデザインして、家内が作って。家内とは洋裁の関係で一緒になって。それで、僕がパリに来たのはもう 30(歳)近くだよ。
 だけど、やっぱり僕は物理をやっていたから、絵でも「新しいのをやる」っていうのが、常に頭の中にある。大学で美術学校に行った連中は、習って、習ったことを描けばいいと思っているでしょ。だから、科学をやったっていうのはそこが違うんじゃないかな。

2、 言葉の壁や、ボザールに入られてのカルチャーショックなどはありませんでしたか?
 言葉は、東京にいた頃、日仏学院に行って。できないと困るでしょ。
 学校(ボザール)に入って教えられたことと、それまで自分で描いていたこととは全然違ったよ。でも、ギャップも苦労もなかった。ゼロから美術を始めようと思っていたから。日本では、もう好きに描いていて。だから、とにかく最初っから、基本からやろうと思って、ひたすらね。

3、 最初から、できればずっとパリにとどまるお気持ちだったのですか?また、ボザールを出た頃には、絵の道に進もうと決めていらっしゃったのでしょうか?
 ずっといるとは、全然、思ってもみなかった。最初は2年しか許可がなかったから。だけど、何とか次々にね。最初は学生ビザだったけれど、途中からは新聞記者としてワーキングビザをもらって。学生は6、7年やったかな。家内は初め洋裁学校に入れて、その後すぐに仕事をしたから、僕より早くワーキングビザをもらってね。
  記者の仕事もできたから、それで飯も食えたなぁ。繊維新聞っていう業界の新聞があって、情報を書いて送ったら、書いた記事を載せたのを各社が買いに来て、1日に全部売り切れて、新聞が1枚もなくなっちゃったっていうんで、それじゃあって、記者になっちゃったんだ。日本でファッションのことをやっていて、知っていたからね。自分で物を作って、見ているから。ファッションショーだけ見て「色はこの色です、形は…」っていうのとは違って、裏は全部わかったからね。
 だから、初めは洋裁をやろうかとも思ったけれど、デザイナーなんていうのは、早くから経験を積んで、25、6の時にはもうそれなりの実績がないとだめなんだ。それで、記者をやりつつ、絵を描いていたよ。


 独自の赤い線を生み出す極細の筆。
 なんと、納得のいくものを、ご自身で作っていらっしゃるそう。
4、独自の画法を生み出すまでの苦労は?ベネチアングラスがヒントになって、赤い線で描く独自の手法が生まれたとのことですが。
  最初の頃は、自分の窓から見た景色ばっかり描いていた。段々自分のものも見つかってきたんだけど、何とかしなきゃ、こんな絵なら誰でも描いている、と思いながら何回も何回も。「暗い絵だ、こんなものはどうしようもない」ってみんなに言われて、それなら明るくしようって、全体的に赤を使った頃もあった。
 それから、街でも描こうかって、外に出て行って。若い時は、住んでいる家の近くを描いて歩いて回っていた。街のデッサンを描いているうちに、それを元に、油絵にもしてみたら、となって。今の描き方とは全然違うんだけれどね。今は、段々、細かく細かくなってきたんだな。“線”で描き出したんだね。そうすると、データが不足していて、普通のデッサンじゃ足りない。だから、増やしていったわけだ。必要だからね、画面を作るのに。それでこんな細かい絵になったら、これがなかなかいいっていうんで。
 その“線”を絵にする方法はないかと思って、それで赤い線を入れてみたんだ。ベネチアングラスって、赤い線で模様を入れているでしょ。ベネチアングラスの工房に行ったら、こういう仕事をやっていたからね。だから、赤い線で引いてみたらどうかって、偶然見つけたんだ。この線を極力細くして、もっと細くして、これで絵が描けないかと思って。それを描く為には、この資料(現場で黒インクのデッサンと水彩絵の具で仕上げた絵)がなきゃできないわけ。それで、現場で水彩画を描いて、それを元にアトリエで赤い(線の)油絵を描いて、両方が作品になっちゃったんだな。 全てフリーハンドで、定規を使っているんじゃないですよ(笑)。
  ただ、その手法を見つけたからって、同じにやってできるから同じように生産するっていうのは、これはもう工芸作家だからね。漆のお盆を作ったり…。だから、そうではなくする為に悩みがあるわけだ。基本的には、僕は今、この線を全部消しちゃって他のことをやればいいわけだ。黒い線にしたり、白い線にしたりとかもやったけれど、どうしても赤い線に帰ってきちゃうんだな。だから、何故僕はここに帰ってくるんだろう、と考える。これでしかもう、自分の目で見て、それを線でとっつかまえていく仕事しかもうできないからだな。
5、実際に現場に数十回足を運んで描かれる、ということですが、写真で撮って写すのとはどう違うのでしょうか?
 うん、写真だとやっぱり描けないな。写真っていうのは、以外とデータがないんだよ。こういう所の影がどうなって…なんていうのは消えてしまって、ただ印象をぱっとつかまえているだけでしょ。雰囲気で描くなら、写真で事足りるわけだけど、ここはどうだったか、この線がどんな風になっているのかということも細かく描きたい、物は物がわかるように描きたいなぁと思って。「写真ぐらい嘘はない」っていう。だから、写真家が一番に、僕の絵を見て驚いたよ。
 写真で撮ったものを見てやる人もないことはないけれど、結局、目も体も壊してしまう。写真からデータを写すのは、ものすごく神経を使うんだ。逆に、その場に通って見ながらやった方が楽。カメラで撮ったら全てが撮れていると思うけれど、じゃあここのデータはどうなっている?と思うと、そこをまた拡大して撮らないと、そこの関係がどうなっているのか、というのはわからない。影の部分は、映っていないからね。1枚の絵を描くのに、何百枚って写真を撮って、それをそばに置いて見ながら、とんでもない作業になる。だから現場で、この線の上はこれだっていうのを決めてくるんだ。ある物を全部、自分の絵に必要なデータを全部、集めてくるんだね。今日も、これから街に行ってきますよ。

 日仏交流150周年記念特別企画展への出品作品より
 『Opera Garnier de Paris パリ・オペラ座(ガルニエ)』


その2 パリが好きだから、変貌する街を描く。
【back number】 vol.1 パリは私を放っておいてくれる街 平沢淑子さん
  vol.2 パリのエネルギー源は人間関係 芳野まいさん
  vol.3 エール・フランスパイロット 松下涼太さんに訊く
  番外編 ワイン評論家 “ジャン・マルク・カラン“に訊く
  vol.4 全てが絵になるパリの景色の中で 寺田朋子さん
  vol.5 マダム・ボ−シェに聞く
  vol.6 日仏交流の最前線で
  vol.7 パリで育ち、世界に羽ばたく 山田晃子さん
  vol.8 光に魅せられて 石井リーサ明理さん
 

vol.9 音楽の都・パリのピアニスト ジャン・ルイ・ ベイドンさん

 

vol.10 光を求めて マリー・ジョゼ・ラヴィさん

 

vol.11 「ミラベル Mira-Belle」帽子で世界一周とタイムトリップを

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